奈良編>宮滝
万葉の吉野
芋ケ峠を越えて万葉集に詠われた吉野 宮滝へ
万葉集に詠われた吉野は吉野川が中心で川の景観を 淵、瀬、小川、淀、沖、という言葉を使って表現している
曲がりくねった山道を越えてやってきた万葉人は迎えてくれた悠久の吉野川の流れに魅了されたに違いない
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芋ケ峠
飛鳥川を遡り栢森の集落を抜けると道は急に狭くなり芋ケ峠に向かうこの古道は大和と吉野を結ぶ最短距離の道である671年10月19日 雨雪の中、大海人皇子(天武天皇)は近江の都を後にこの道を急ぎ吉野に向かった
翌672年7月 吉野に隠棲していた皇子は近江朝廷に対して兵を上げ、皇位継承戦に打ち勝って即位した有名な壬申の乱である (巻①-25、26) -
千股(ちまた)の村落
芋ケ峠を越えると視界は一気に開け吉野、大峯連山が迫ってくる
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万葉歌碑
天武天皇、吉野の宮に幸しし時の御製歌
よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見
巻①-27
(昔の立派な人が良い所だとよく見てよい所だと言った。この吉野をよく見なさい。よい人よ、よく見なさい)
揮毫者は犬養孝氏 近鉄吉野駅前 -
大名持神社(おおなもちじんじゃ)
吉野川右岸にそびえる妹山樹叢(標高249)の南麓に鎮座する 吉野川対岸に背山がある
妹山樹叢は国の天然記念物に指定され、全山原生林におおわれている -
大名持神社
祭神は大己貴命(おほあなむちのみこと)
少彦名命(すくなびこなのみこと)を並祀
大汝 少御神の 作らしし 妹背の山を 見らくしよしも
巻⑦-1247
大汝の命と少彦名命が協力して国土を作ったというこの歌は和歌山県紀の川沿いの妹背の山を詠んだものか -
宮滝遺跡
中荘小学校前に史跡の碑と万葉歌碑がある
吉野離宮のあった場所ははっきりしないものの、発掘調査の結果、この辺りが有力視されている。 発掘された縄文時代から奈良時代にいたる遺物は現在 宮滝の吉野歴史資料館に展示してあります -
万葉歌碑
柿本人麻呂の代表作ともいわれる吉野讃歌の第一作品揮毫は国文学者の武田祐吉氏
(大意) たくさんあるクニの中でもとりわけ山も川も美しい
吉野に離宮が営まれたので宮廷に使える人々は船を並べて川を渡っている。この川の流れのように絶えることなく この山の
ように永遠に高く聳えている吉野の滝の離宮はいくら見ても見飽きないことだ… (巻①-36、37)
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三船山(左) 象山(右)
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吉野川 (柴橋より望む)
吉野川は、奈良県大台ケ原から流れ出し吉野の宮滝を流れ和歌山県で紀ノ川にそそいでいる。
明日香や平城京の川より大きく流れの激しい吉野川は当寺の都人にとって驚きであったと共に憧れだったかもしれない -
柴橋と吉野川
吉野川 行く瀬の早み しましくも 淀むことなく ありこせぬかも 弓削皇子 (巻②-119)
弓削皇子(ゆげのみこ)は天武天皇の皇子
紀皇女(きのひめみこ)を思って詠まれた歌四首のうちの一首
(吉野川の流れが速い、その早瀬のように少しの間も滞ることなくあってくれないものかな 貴女の思いが…) -
夢(いめ)のわだ
象(きさ)の小川が宮滝で吉野川に流れ込んでいるところと言われている
「わだ」とは川などが曲がりこんだ場所、入り江のようになったところを言う -
夢のわだ
わが行きは 久にはあらじ 夢のわだ 瀬にはならずて 淵にありこそ 大伴旅人 (巻3-335)
夢のわだ 言にしありけり うつつにも 見て来るものを 思ひし思へば 作者未詳 (巻7-1132) -
象(きさ)の小川
吉野の金峰山と水分山 (みくまりやま)から流れ出た川が合流し、喜佐谷の岩の間を縫って北上、桜木神社の側を通って宮滝で吉野川に流れ込む
昔見し 象の小川を 今見れば いよよさやけく なりにけるかも
大伴旅人の吉野讃歌 (巻3-315、316)