奈良編>山の辺の道part2
山の辺の道 Ⅱ
巻向から天理まで (2005/10/13)
快晴に恵まれた秋の一日、古代のロマンと、秋の風物詩を求めJR巻向駅に降り立った。先回は桜井から巻向まで約8kmの行程でしたが
今回は巻向から天理まで約12kmとハードスケジュール、「秋の日は釣る瓶落し」 夕暮れ間近の天理市外を急ぎ足で天理駅へ辿り着きました。
あしひきの 山川の瀬の 響るなへに 弓月が嶽に 雲立ち渡る 柿本人麻呂歌集 (巻7―1088)
(歌意) 巻向川の高い瀬音の響きに合わせるように弓月(ゆつき)が嶽に雲が湧き上がりゆっくりと流れていく
弓月が嶽は不明ですが、巻向山(写真右側)の山頂か またその西か、東南にある峰か、いづれこの辺りの山には違いないとのこと。
-
景行天皇陵
この辺りは穴師大兵主神社の境内になり、振り向くと景行天皇陵が生駒山系を背に大和盆地の中に溶け込むように一望することができる。
-
穴 師 (あなし)
実り豊かなみかん畑と柿畑、一面おだやかな田園風景の中を歩いていくと景行天皇の纒向・日代宮跡に辿り着く。
-
穴師
-
穴師大兵主神社(あなしだいひょうずじんじゃ)
古は二社に分かれており上社は弓月嶽に、下社は現在のこの地にあった。上社は応仁の乱で焼失、下社に合祀された。
拝殿のうしろ、本殿に三座をお祀りする。中央が兵主神社、いずれもご神体を矛とするところから神社名が起ったとされる。
拝殿の玉垣の下 右奥のほの暗いところに会津八一氏揮毫の万葉歌碑が建っている。 -
穴師大兵主神社(あなしだいひょうずじんじゃ)
あまくもの ちかくひかりて なるかみの みればかしこし みねばかなしも 作者不詳 (巻7―1369)
(歌意) 天雲の近くで光って鳴る雷のようにお逢いすれば恐れ多いし、お逢いしなければ悲しいことです -
相撲神社 (相撲発祥の地)
日本書紀の垂仁紀7年7月の記録には大兵主神社境内のカタヤケシにおいて野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たぎまのけはや)による日本初の天覧相撲が行なはれた
-
相撲神社
結果 野見宿禰が相手の腰を砕き勝利し、長く大和朝廷に仕えたとのことが記されている。その後相撲は国技となった。
-
相撲神社
纒向の 桧原もいまだ 雲ゐねば 小松が梢(うれ)ゆ 沫雪(あわゆき)流る 柿本人麻呂歌集 (巻10―2314)
(歌意) 巻向の桧原にも雲はかかっていないのに、松の枝先に泡雪が流れるように降っている。 -
景行天皇陵付近
再び山の辺の道を更に進むと巨大な前方後円墳、景行天皇陵が間近に迫ってくる。桜井市と天理市の境近くに万葉歌碑が建っている。
うま酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の間に いかくるまで 道のくま いさかるまでに
つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむ山を 心なく 雲の かくさふべしや -
景行天皇陵付近
反歌
三輪山を しかもかくすか 雲だにも 心あらなむ かくさふべし也 額田王 (巻1-17、18)
都が飛鳥から近江に遷る時、新都への道すがら大和国の守護神である三輪山へ惜別の思いとこの先の旅の安全を詠んだ有名な歌。
この場所は三輪山が最も美しく見えるところであり、この先天理市に入ると三輪山の全景に接することは難しくなる。 揮毫は中河与一氏 -
崇神天皇陵付近
天理市に入り景行天皇陵、更に進むと崇神天皇陵がどっしりとその姿を見せる。この辺りの景色はすばらしく生駒山系を背に大和三山が大和平野の中に一望でき、遠く二上山、葛城山、金剛山の姿をも望むことができる。
-
崇神天皇陵付近
崇仁天皇陵
-
長岳寺
天長元年(824) 淳和天皇の勅願により弘法大師が創建したという。山門から山手へ約4000坪の境内に藤原時代の鐘楼門(重文)、本堂には仁平元年(1151)の銘がある阿弥陀如来三尊像(重文)、拝観すべきものがたくさんあるが今回は時間が無くて割愛する (×_×;)
-
長岳寺
-
竜王山の麓
のどかな山の辺の道に戻り、衾道(ふすまぢ)と呼ばれる辺りまで来ると竜王山を背に犬養孝氏揮毫の万葉歌碑がある。
衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし 柿本人麻呂 (巻2-212)
詞書に「柿本人麻呂、妻死(みまかり)し後、泣血哀慟して作る歌二首 並に短歌」とあり、まずは長歌と短歌2首(巻2-207~209)
続いて別の長歌と短歌2首(巻2-210~212) この歌は二作目の長歌に対する反歌である。 -
竜王山の麓
人麻呂は桧原の巻向川の近くに住まわせていた妻があった。亡くなったのはその愛する妻であろうか 引手の山に妻を葬り悲しみのあまりに生きた心地がしない状況を歌い上げている。 あまりにも有名な人麻呂の挽歌に読むがわも心打たれるものがある。
引手の山は竜王山(585.7m)をさす。この付近は現在も墓地の多いところですが、昔も葬送の地であったとおもわれる。 -
五社神社付近
柳本古墳群の北、衾田と呼ばれた地区付近には600を越える円墳や塚が発見されており、この辺りが死者を弔う所だったことがわかる。
-
西殿塚古墳
中でも五社神社の東にある西殿塚古墳は衾田陵と呼ばれ継体天皇の皇后、欽明天皇の母、手白香(たしらか)皇女の墓と言われている。
-
竹之内環濠集落
中世の終わりごろ外的の侵入を防ぐため、周りに壕をめぐらし石垣を作り村ぐるみその中で暮した。その面影がこの集落に残っている。
-
竹之内環濠集落
-
夜都伎神社(やつぎじんじゃ)
天理市乙木集落にある式内社 もと春日神社・乙木社と称していたが夜都伎神社に改名。 ヤツギ、ヨトギ、ヤトギ??地元の方はヨトギと呼んでいるそうですが?
-
夜都伎神社(やつぎじんじゃ)
-
夜都伎神社(やつぎじんじゃ)
-
内山永久寺址
夜都伎神社を過ぎると道は上り坂が多くなり、「つるべ落し」の秋の陽が西に傾きかけ風も冷たく感じるようになった。少し早足で内山永久寺跡に辿り着く。
-
内山永久寺址
永久年間(1113~17)鳥羽天皇の勅願で創建され、石上神宮の神宮寺として往時は大伽藍を誇っていたがその後 寺勢が衰え明治の廃仏毀釈で廃寺となる。
-
内山永久寺址
時代の流れと歴史の厳しい現実を語るかのように今はわずか池を残すのみ・・・・・ 「内山や とざましらずの 花ざかり」 池畔に芭蕉(宗房)の句碑がある。
-
石上神宮(いそのかみじんぐう)
殿の入口である楼門(重文) 桧皮葺、入母屋造りの屋根は鳥の翼を思わせるような美しさです。 拝殿(国宝)は入母屋造り、桧皮葺、正面七間、側面四間の堂々とした建物でいずれも鎌倉時代の建造物。古代、物部氏が奉仕した社で大和朝廷の武器庫としての役割を果たした。最古の銘文を持つ七支刀(国宝)を所有。
-
石上神宮(いそのかみじんぐう)
石上 布留の神杉 神さびし 恋をもわれは 更のするかも 柿本人麻呂歌集 (巻11-2417)
(歌意) 布留(古)の社の神杉のように年老いてもなお、今また恋をしようとしている 『万葉集』には石上布留(いそのかみふる)と詠む歌が10余首ある。 -
石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿(写真・下)
割拝殿の形をとった横長の切妻造り、正面に唐破風屋根をつけた桧皮葺で、湿気が多いせいか痛々しく見えるが国宝に指定されている。
廃仏毀釈の波を受けて内山永久寺は鎮守社だけがかろうじて残っていたが、本殿は放火され焼失、放置されていた拝殿を大正3年に現在の場所移築した。鎮守社の拝殿だけでもこのように立派な内山永久寺、現存していたらさぞかし壮大な大寺院であったと思われる。