奈良編>山の辺の道part1
山の辺の道
桜井から巻向へ
山の辺の道は三輪山の山麓から奈良山まで、現在の桜井市から奈良市までの山添いに南北に通じていた古代の道
山の辺の道について詳しく述べた文献はなく、万葉集にもでてこないが古事記、日本書紀の中に山辺道勾岡上陵(崇神陵)、
山辺道上陵(景行陵)などの名の残るところから山に添った道と言う意味だったと言われています。
梅雨の中休み、快晴に恵まれた一日桜井駅から巻向駅まで、山の辺の道の
約半分を万葉ウォーク。 緑、みどり、ミドリいっぱいの道は都会の喧騒を忘れさせ
万葉人への限りない郷愁を感じさせてくれました (2004/6/16)
海柘榴市(つばいち)
桜井駅から北東へ標識に沿って歩いていくと初瀬川の向うにめざす三輪山の秀麗な姿が見えてくる。
この初瀬川を渡ると金屋、万葉故地の海柘榴市である
ここが山の辺の道の南の起点になる。海柘榴市観音堂に通じる標識の下に小さな万葉歌碑が立っている
紫は 灰さすものぞ 海石榴市の 八十の衝に 逢へる児や誰 (巻12-3101) 作者不詳
海柘榴市は「八十のちまた」、交通の要衝であった。東は初瀬、伊勢へ。
南は飛鳥に通じる磐余、山田道。西は当麻から難波へ、北は奈良、山城へと通じる。
この地は古代の歌垣の風習が行われた場所として有名である。青年男女が四方の土地から集まってきて互いに恋の歌を掛け合って
結婚の相手を見つけるいうものである。
先の歌は青年が単刀直入に呼びかけた乙女に対するプロポーズの歌である。この歌に対して乙女が答えた歌、
たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路ゆく人を 誰と知りてか (巻12-3102) 作者不詳
古代、未婚の女性は夫と決めた男性にしか名を明かさなかった。路で行き会った人にどうして名前を言えましょうか と相手に気を持たせている。
-
金谷の石仏
海柘榴市観音の道を北に入り狭い道を行くと金谷の石仏。 もと三輪山麓にあったが明治初年この地に移された。
-
金谷の石仏
さなお堂仁収められた二体の石仏は右が釈迦如来、左が弥勒菩薩と推定される。高さ2.2m、幅約80cm、厚さ21cmの2枚の粘板岩に浮き彫りされている。古くは貞観時代、新しくても鎌倉時代のものとされ国の重要文化財の指定をうけている。
-
崇神天皇磯城瑞籬宮跡(すじんてんのうしきのみずがきのみやあと)
崇神天皇はハツクニシラススメラミコトと呼ばれ初めて三輪山麓に王朝を確立した天皇ではないかと言われている。その皇居跡といわれる。
-
崇神天皇磯城瑞籬宮跡
現在、この場所に志貴御県主神社(しきみあがたぬしじんじゃ)が祀られている。境内に万葉歌碑を見つけた。
-
崇神天皇磯城瑞籬宮跡
磯城島の 大和の国に 人二人 ありとし思はば 何か嘆かむ (巻13-3248) 作者不詳
(この大和の国に愛しいあなたが もし二人おいでになるならば何をあれこれ嘆くことがありましょう) -
平等寺
山裾を覆う静かな林の中を縫うように歩いていくと平等寺に至る。もとは大神神社の神宮寺で聖徳太子の創建と伝える古刹だったが明治の廃仏毀釈で廃された。
-
平等寺
明治10年翠松庵として再建され、昭和52年再び平等寺と改められた。山門を入ったすぐ左手に万葉歌碑がある。
-
平等寺
わが衣 色に染めなむ うま酒 三室の山は もみちしにけり (巻7-1094) 柿本人麻呂歌集
(神を祀る三輪山の木々が美しく色づいたので私の衣をその色で染めましょう) -
大神神社(おおみわじんじゃ)
平等寺から林の中の道を辿ると大神神社に至る。崇神天皇が太田田根子に祀らせた古社で、大物主神(おおものぬしのかみ)、大巳貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀る。三輪山を御神体とするので本殿はなく、拝殿(重文)の後にある三つ鳥居(重文)から聖なる山を拝する形をとる。
-
大神神社(おおみわじんじゃ)
味酒を 三輪の祝(はふり)が いはふ杉 手触れし罪か 君に逢ひがたき 丹波大女娘子 (巻4-712)
味酒(うまさけ)は三輪の枕詞、今も酒の神として信仰され。作り酒屋の軒に三輪のの神杉で作った杉玉を見かけることがある。
(三輪の神官が大切に祀る聖なる神杉に手を触れた罪でしょうか あなたにお会いできないのは)
-
大美和の杜
大美和の杜(もり)展望台からの大和平野の眺望はすばらしく、左から香具山、畝傍山、耳成山、大和三山を眼下に治め、遠景に左から金剛山、葛城山、右に目を転ずると二上山、そして生駒山の連山を望むことが出来るので山の辺の道の中でも絶好のカメラポイントととしてカメラ愛好家お勧めの場所である。
-
大美和の杜
中大兄の三山の歌
香具山は 畝傍ををしと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも つまを 争ふらしき (巻1-13)
大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に 大伯皇女の哀傷して作らす歌
うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟(いろせ)と我が見む (巻2-165)
-
狭井神社・狭井川
大神神社の拝殿横の道を北へ辿ると摂社狭井神社、「サイ」とは百合(やまゆり・ささゆり)のことでかつてはこの付近に一面に咲いていたらしい
狭井神社は「鎮花祭」(はなしずめまつり)で名高い。 三輪山登山はこちらで許可を受けて拝殿右の登山口から登ることができる。 -
狭井神社・狭井川
さらに山裾道を行くと狭井川、古事記によるとこの川のほとりで神武天皇が伊須気余里比売(いすけよりひめ)を見染め、歌を交わし皇后にされた
-
狭井神社・狭井川
狭井河よ 雲立ち渡り 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす 古事記 (歌謡番号21)
この歌は天皇没後、その継兄から言い寄られた比売が3人の皇子たちの危険を察知してこの歌で危機を知らせ見事に救ったと言う -
玄賓庵(げんぴんあん)
照りつける太陽の下、緑陰を求め山道を歩くと玄賓庵の築地塀が見えてくる。 ここは謡曲『三輪』で有名、境内のアジサイが心を和ませてくれる。
-
玄賓庵(げんぴんあん)
紫陽花の歌は万葉集に2首残る。(巻4-773、巻20-4448)
紫陽花の 八重咲くごとく 弥つ代にを いませわが背子 見つつ偲はむ 橘諸兄 (巻20-4448) -
玄賓庵(げんぴんあん)
玄賓庵の北側、涼しげな山清水のせせらぎの森かげに高市皇子の異母妹十市皇女の死を悼む挽歌を刻んだ歌碑を見つけた
山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく 高市皇子 (巻2-158) -
山の辺の道
「山邊道」の道標は文芸評論家小林秀雄氏の揮毫によるもので 山の辺の道に三箇所立っている。金屋の石仏から平等寺の間に一基、玄賓庵から桧原神社へ至る杉木立の中に一基(下の写真)、もう一基は巻向から穴師の集落に入るミカン畑に立っている。
-
山の辺の道
写真右の歌碑は檜原神社手前の道の脇に立つ。 柿本人麻呂歌集の歌が刻まれている
古の 人の植ゑけむ 杉が枝に 霞たなひく 春は来ぬらし (巻10-1814)
-
檜原神社(ひばらじんじゃ)
檜原神社も大神神社の摂社のひとつ、本殿も拝殿もなく大神神社と同じと言われる三つ鳥居があるだけである。『日本書紀』の崇神天皇紀によるとこの地は笠縫邑(かさぬいむら)といって 天照大神が伊勢神宮に鎮座する以前 豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されて初めて宮中以外の地に移されたところと伝えられる。
-
檜原神社(ひばらじんじゃ)
神社の一の鳥居を通して二上山が真西に秀麗な姿を見せ、これも絶好のカメラアングルとなる
-
檜原神社(ひばらじんじゃ)
いにしへに ありけむ人も わが如か 三輪の檜原に かざし折りけむ 柿本人麻呂歌集 (巻7-1118)
(歌の意味) 昔の人も私が今するように、この三輪の檜原を折ってかんざしにしたことだろうか -
井寺池
かつては檜原神社の参道だったと思われる柿畑の道を西へ行くと井寺池がある。池から西を望むと青々とした大和平野のなかに大和三山に加え目の前に箸墓古墳の森が鎮まる。
-
井寺池
近年 女王卑弥呼の墓ではないかと関係者を騒がせているが、一般に日本書紀(崇神紀)に書かれているように倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓といわれている巨大な前方後円墳である。
-
井寺池
井寺池を仕切る堤にはノーベル賞作家川端康成氏揮毫の古事記歌謡の歌碑が東面して据えられている
大和は 国のまほろば たたなづく 青かき 山ごもれる 大和し 美し 倭建命 (古事記・歌謡番号31) -
三輪山
井寺池の堤に立って東を望むと三輪山が水面に影を落とし大変に美しい。 古代の人が太陽の昇る山、神聖な山と崇めたのも頷ける。
額田王、近江国に下りし時作る歌 (歌碑は狭井川の近くの植え込みの中に立っている) -
三輪山
味酒(うまさけ) 三輪の山 あおによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈 い積るまで
つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
反歌
三輪山を しかも隠すか 雲だにも こころあらなも 隠さふべしや (巻1-17、18) -
巻向山
檜原神社に戻り、道を右へ廻り込むと一面のミカン畑がひろがる。この辺り巻向山、穴師山、弓月ヶ嶽、巻向川(穴師川)など万葉故地が多いので坂道を下りながら万葉歌碑を観賞しながら歩く。周りの風景にとけ込むようにひっそりとそれでいてそれぞれが自己主張しているように見えた。
-
巻向への道
足引きの 山かも高き 巻向の 岸の小松に み雪降りけり 人麻呂歌集 (巻10-2313)
[歌の意味] 山が高いからであろうか 巻向の崖の小松に雪が降ってくることだ -
巻向への道
巻向の 山邊響みて 行く水の みなわの如し世のひと吾は 人麻呂歌集 (巻7-1269)
[歌の意味] 巻向の山辺をどうどうと音立てて流れ
行く川の水泡のようなものだ。この世の人である私は -
巻向への道
ぬばたまの 夜去り来れば 巻向の 川音高しも あらしかも疾(と)き 人麻呂歌集 (巻7-1101)
[歌の意味] 夜になってきたら巻向川の川音がとりわけ高くなってきた 嵐が激しくなってきたらしい -
巻向への道
痛足川(あなしがわ) 川波立ちぬ 巻向の
由槻が嶽に 雲居立てるらし
柿本人麻呂歌集 巻7-1087
棟方至功氏の揮毫で絵入りの楽しい歌碑でした -
巻向への道
三諸の その山なみに 児らが手を
巻向山は 継のよろしも
柿本人麻呂歌集巻7-1093
青空に巻向山の緑と白壁の家のコントラストが素適でした