歌書よりも軍書に悲し吉野山
芭蕉の門弟、支考(美濃出身の俳人)の句は余りにも有名である。桜の名所としてしばしば和歌に詠まれているが、歌に詠まれた哀れは十分わかっていても軍書(太平記)に書かれた戦乱の哀れさはもっと悲しいとの意。
花の吉野に散った若者たちの姿が偲ばれる吉野は古来より山岳信仰の場として崇められていましたが、奈良時代の初め、役行者が金峯山に修験の霊場を開き、その後理源大師が蔵王堂を開いたとされます。 以来吉野山は日本の修験道のメッカとして隆盛をきわめてきました。
(2002/7/13 ・ 2004/8/25)
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吉野山
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柳の渡し
吉野川には古く、椿、柳、桜の三つの渡しがありました
この柳の渡し(六田の美吉野橋)は修行の最初の行場でかつて吉野に入る行者たちはここで身を清めました -
吉野神宮
明治22年、明治天皇が「吉野宮」として創建、いまの社殿は昭和7年に竣工し 後醍醐天皇を祭神として祀り 摂社には日野資朝、児島高徳など7人の功臣を祀っている。
流れ造りの本殿、入母屋つくりの拝殿、切妻の神門、昭和の神社建築を代表するもので正北面(京都向)に建てられている -
村上義光(よしてる)の墓
1333年(元弘3)、後醍醐天皇の皇子 大塔宮護良親王の身代わりとして蔵王堂二天門上で自害、その首が人違いとして捨てられていたのを里人が葬ったと伝えられる
吉野神宮より1km南、不動坂を登った丘の上にある形は宝篋印塔 -
大橋
橋の形をしているが川に架かる橋ではなく、大塔宮護良親王の吉野城の空濠に架かる橋で戦略的な意味があった
今はコンクリートの朱塗りの橋ですが、当時は木の橋だった
欄干の擬宝珠に慶長9年建立の銘がある -
黒門
金峯山寺(きんぷせんじ)の総門
木造の門で形は高麗門、黒く塗られているのでこう呼ばれている -
銅(かね)の鳥居 (重文)
黒門から急な坂を登りつめた所にある 銅製の鳥居
高さ約7.5m、柱の周囲約3.3m、1348年(正平3)焼失したが室町時代に再建された。正しくは発心門という 山上ヶ岳(大峰山)への修験道にある四つの門の最初の門になる。
吉野なる銅の鳥居に手をかけて 弥陀の浄土に入るぞうれしき -
金峯山寺 仁王門 (国宝)
三間一戸、入母屋造り、本瓦 葺きの二重門、門前町本通りつきあたり石段の上に立っている
本堂は南向きで山上ケ岳からの巡礼を迎えるのに対しこの門は北向きに建ち大阪や京都からの逆峯入りする信者を迎えた -
蔵王堂 (本堂・国宝)
東大寺大仏殿に次ぐ木像の大建築で現在の本堂は天正20年(1592)に再建されたもの 高さ34m正面5間、脇間6間、桧皮葺、入母屋造り、裳層(もこし)つきの壮麗な建物である
『太平記』には正平3年(1348)高師直の軍勢により兵火にかかったときのすざまじさが描かれている -
蔵王堂
正面軒裏は室町末期を代表する建造物だけあって荘厳本尊は三体の蔵王権現で何れも秘仏、中尊は高さ7m余の巨像で衆生の過去、現在、未来を救済するというありがたい仏さま(平成16年7月1日より一年間、特別ご開帳)堂内は内陣と礼堂とからなり、自然木を素材のまま使った柱68本が林立する様は圧巻です
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二天門跡
蔵王堂の正面、右隅に「大塔宮御陣地」と刻まれた石柱が立つ後醍醐天皇の皇子護良親王はここを本陣として壮烈な戦いをくりひろげていたが 及ばず落城した。
この近くにかつて二天門といわれた門があり、忠臣村上義光は大塔宮の鎧をつけ二天門に駆け上がり身代わりとなって壮絶な死を遂げたところと伝えられている -
後醍醐天皇導稲荷大神
京都の伏見稲荷大社を勧請、蔵王堂の南端に祀られている
”むば玉の 暗き闇路に 迷ふなり われにかさなむ 三つのともしび” 後醍醐天皇御製
天皇が延元元年(1336)12月12日、吉野落ちの折、伏見稲荷大社に願をかけられた時の歌。 三つのともしびは稲荷山の三つの峰に祀られている神をさしている -
吉野朝皇居跡 (蔵王堂の西)
後醍醐天皇ははじめ吉水院へ難を逃れましたが次にここ実城寺を金輪王寺と改め皇居とされた
天皇はここで生涯を閉じられますが その後 南朝三代の歴史が続きます
現在は南朝妙法殿が建ち皇居跡公園として整備されている -
吉水神社
吉水院という金峯山寺の僧坊を行宮に定められたので明治の初め後醍醐天皇を祀る神社として改められた。
天皇の玉座のある書院は重要文化財
源義経が静御前と逃げ延びてきたのも、太閤秀吉の花見の本陣となったのもここ吉水院だった -
北闕の門
吉水神社の庭の端にありこの門から北方の山々を望むことができる
後醍醐天皇の悲願はあの山の向こう京の都に帰ることだったという
「玉骨(ぎょっこつ)はたとえ南山(なんざん)の苔に埋もるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっけつ)の天を望まむと思ふ」玉骨は天皇の肉体、、魂魄は天皇の魂を南山は吉野山、北闕は京都をさしている -
吉水神社境内
天皇の仮のお住まいとなった吉水神社には多くの足跡がある。境内の一目千本と呼ばれる場所からの桜の眺望が最高!
”花にねて よしや吉野の 吉水の 枕の下に 石走る音”
有名な御製は仮寝の枕の下を流れる瀬古川のせせらぎを聞いて詠われたものといわれる
”ここにても 雲居の桜 咲きにけり ただかりそめの 宿と思ふに” 後醍醐天皇御製 -
後醍醐天皇塔尾陵(とうのおのみささぎ)
延元4年(1339)8月16日 波乱に満ちた生涯を閉じられた 御齢52歳、杉や檜の美林に覆われた如意輪寺の裏山に陵があります。 天皇の悲願を伝え京都の方角、北向きに築かれている
”京(みやこ)への思い残して散り果てし すめらみことの陵(はか)は北向き” tokko -
如意輪寺
後醍醐天皇の勅願寺、天皇崩御の後、楠木正行が大阪四条畷の戦いに出陣の際、鏃(やじり)で記した辞世の歌がお堂の扉に残っている (現在は宝物殿に保存)
”かゑらじとかねて思へば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる” (楠木正行 辞世) -
花矢倉
眼下に上千本、中千本、蔵王堂が見下ろせる吉野の展望台金剛山、葛城山、二上山も遠望できる。 桜のシーズンはすばらしいが車と観光客で静かな観賞は望めない
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吉野水分(みくまり)神社(重文)
花矢倉から徒歩5分のところにある。 主神は水の分配を司る
天之水分大神(あめのみくまりのおおみかみ)、「みくまり」が「御子守」(みこもり)と訛って俗に「子守さん」と呼ばれ子宝の神として信仰されている この辺りの地名を子守という。
桃山様式の美しい建築で、本殿は一間社春日造り、桧皮葺き左右の2殿は三間社流造りで、3殿を一棟続きにしてあり庭をはさんで左に拝殿がある -
金峯神社(きんぷじんじゃ)
奥千本に鎮座する吉野山の地主神、金山毘古命(かなやまびこ)をお祭りする。 中世以降修験道の修行の場であった。
『栄華物語』には藤原道長も参拝した事が記され その折に埋経した金堂製経筒(国宝)が300年ほど前に発見されている
現在は京都国立博物館に収蔵されている -
金峯神社・拝殿
格式の高い折り上げ小組格天井を使っています
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義経隠れ塔
金峯神社の境内左の坂道を少し下ると、源義経が
弁慶と難を逃れ隠れたとされる宝形造りのお堂がある
文治元年(1185) このお堂仁隠れていた義経は追っ手を逃れる為、屋根を蹴破って外へ逃れたといわれ別名蹴抜けの塔ともいわれています -
奥千本~西行庵へ
金峯神社より山道を500メートルとあったので歩き出したが谷筋でかなりの起伏があり往復1時間ほどかかった
苔清水
”とくとくと落つる岩間の苔清水 汲みほすまでもなき住居かな” 西行
途中にあり今も清らかに澄んだ水は大和の水31選のひとつ -
西行庵
西行法師が3年を過ごしたといわれる小さな庵
奥千本の奥、その時代 人も通わない山奥に何故?歌が西行の心を伝えてくれるのみである
”深き山に澄みける月を見ざりせば 思い出もなきわが身ならまし” 西行 -
如意輪寺の秘宝
金剛蔵王権現立像 (重文・鎌倉時代)
1226年(嘉禄2) 運慶の弟子、源慶作 桜の一木造り
蔵王権現は悪魔降伏の仏で右手右足を挙げ悪魔を鎮めるための憤怒の相をしている。 火焔を衣のようにまとい岩座に立っている。全身に美しい截金がほどこされ、眼は玉眼、権現像として他に類がないほど見事に表現されている
華麗なお厨子に入っているが厨子も需要文化財
後醍醐天皇の念持仏だったとも言われている