瀬戸内編>淡路島
淡路島
海人と神話の国に万葉を訪ねて (2005.1.30~31)
明石海峡大橋
明石海峡を渡るとそこは淡路島、国生み神話の舞台、また万葉人に愛された地として今なお古代の息吹を伝えてくれる。
ともしびの 明石大門(おおと)に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず
柿本人麻呂 (巻3-254)
難波の港を船出して最初の難関、明石海峡が迫ってきた。ここまで来るともう振り返っても家の辺りはおろか大和も見ることもできない。
瀬戸内海を通り西国への旅は果てしなく遠く、これからの海路の不安と怖れは増すばかり、自ずと家郷を恋う心情につながってく。
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淡路町大和島
天離る 夷(ひな)の長路ゆ 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ 柿本人麻呂 (巻3-255)
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大 和 島
岩屋漁港のすぐ近く陸続きの小さい島で頂上にイブキの群落がある。 しかしこの歌は 先の歌(3-254)が往路の歌であるのに対し帰路の歌で明石海峡に入ると懐かしい故郷の山々が見えてくる感動を詠ったもので、この岩屋の大和島はこの歌に付会されたものか??
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絵 島
岩屋漁港のすぐ傍にあり古くより月見の名所として歌枕になっている。
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絵 島
『平家物語』 「月見の巻」にも 「須磨より明石の磯づたひ、淡路の瀬戸をおしわたり、絵島が磯の月をみる。」 との記述がある。
千鳥鳴く ゑじまの浦に すむ月を 波にうつして 見る今宵かな 西行 『山家集』 -
松 帆 の 浦
名寸隅(なきすみ)の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海人をとめ ありとは聞けど 見に行かむ
縁(よし)の無ければ ますらをの 情(こころ)は無しに 手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて 徘徊(たもとほ)り 吾はぞ恋ふる 船楫を無み
笠 金村 (巻6-935)
この歌は神亀3年(726) 聖武天皇の印南野行幸の折にお供していた笠金村が現在の明石市大久保辺りから松帆の浦付近を遠望して詠んだもの。古来、松帆は製塩が盛んな地であり、塩を作る為の「藻刈り」や「塩焼き」の風景に当時の貴族たちは関心を持ったものと思われる。 -
松 帆 の 浦
来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に やくやもしおの 身もこがれつつ 藤原定家
『百人一首』で有名なこの歌も先の笠金村の歌を踏まえての作と思われる。 現在製塩は行われていない。祀られているのはゑびす神社。 -
北淡町江崎灯台
淡路島の北端にある江崎灯台に登ると明石海峡が一望に見渡せる。晴れた日には対岸の須磨、明石の海岸線を遠望できるスポット。
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江崎灯台
荒磯越す 波を恐(かしこ)み 淡路島 見ずや過ぎなむ ここだ近きを (巻7-1180)
波が荒々しいので恐ろしくてこんなに近くまで来ているのに淡路島に近寄れない無念さを詠っている。明石は魔の海峡だったのかもしれない。灯台は明治4年4月に建てられた日本で8番目の洋式灯台、その姿は100年の風雪にも絶え今なお行き交う船の安全を見守っている。 -
野 島
海岸沿いの大川公園には野島の海人たちの製塩の様子を再現した像が置かれている。
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野 島
江崎灯台より約7キロ南西、淡路島の西海岸に位置する野島は古くから海人集団の根拠地として有名であり、漁労や製塩を生業としていた。
この海人像の下に右の山部赤人の歌が刻んである。 -
野 島
朝凪に 楫の音聞こゆ 御食(みけ)つ国 野島の海人の 船にしあるらし (巻6-934)
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野島蟇浦(ひきのうら)
淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐ふきかへす 柿本人麻呂 (巻3-251)
難波の港を出てから船旅を続け野島の崎に着いた。広大な播磨灘を前にして、別れの時に妻が結んでくれた衣の紐がひるがえるのを見て、旅の苦しさに妻への慕情が一層募る様子が悲しいまでに詠われている。
今では護岸工事が進み昔の海岸線は消えてしまった。 -
南あわじ市 慶野松原(西淡町)
野島から播磨灘沿いを南下すると西淡町に至る。津名町の五色浜から慶野松原まで約3kmに及ぶ景勝地で白い砂浜に数万本の淡路黒松が生い茂り、「日本の渚百選」にも選ばれている。
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南あわじ市 慶野松原(西淡町)
松越しに見る瀬戸内海の夕日は絶景とのことです。
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慶 野 松 原
飼飯(けひ)の海の 庭好くあらし 刈薦の 乱れ出づ見ゆ 海人の釣舟 柿本人麻呂 (巻3-256)
人麻呂の羈旅(たび)の歌8首(巻3 249~256)中 最後の1首、飼飯の海はこの慶野松原付近の海を詠っていると思われる。沖辺から次々に押し寄せる白波に海人の乗る釣舟が乱れるように動いてる一見叙景詩に思えるが、妻の姿を思い出し心乱している作者の内面を読み取ることができる。 -
淳仁天皇陵(南淡町)
高さ10m 周囲870mの前方後円墳、 天平宝寺8(764) 藤原仲麻呂が孝謙上皇と僧道鏡を相手取り起こした政争恵美押勝の乱で仲麻呂は近江の高島で敗退、彼が奉じていた淳仁天皇は皇位を略奪され、生母とともに淡路島に配流された。恵美押勝の名は仲麻呂の別名で淳仁天皇から贈られたものだった。多くの天皇陵が近畿地方に集中するが、南淡町の畑の中にひっそりと横たわるのに哀れを覚えた。この内乱のあと、孝謙上皇は自ら復位し称徳天皇となり、道鏡に太政大臣禅師、法王の位を授けた。以後7年、史上稀な閨房政冶が続く。
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淳 仁 天 皇 陵
万葉集に天平宝字元年(756)11月18日、内裏においての宴席で皇太子大炊王(淳仁天皇)の御歌と仲麻呂の歌が併記されている。
天地を 照らす日月の 極みなく あるべきものを 何をか思はむ 皇太子(大炊王) 巻20-4486
いざ子ども 狂(たは)わざなせそ 天地の 堅めし国ぞ 大和島根は 内相藤原朝臣 巻20-4487
仲麻呂が孝謙天皇のもと、紫微内相という最高権力者として政治を欲しいままにしていた頃に詠まれた歌でその絶頂期を示している。 -
伊弉諾神宮(一宮町・多賀)
神話の淡路島
『延喜式神明帳』にある「淡路伊佐奈伎神社」で 由緒は『古事記』 『日本書紀』の記述による。祭神は伊弉諾大神、伊弉冉大神の二柱。
大鳥居から参道をすすむと重厚な桧皮葺の表神門が迎えてくれる。 約12000坪の境内には本殿、拝殿、東西神門、放生神池、樹齢900年の連理の夫婦大楠(県指定天然記念物) 等々さすが淡路国一の宮、神話のふるさとと言う雰囲気が漂っていました。 -
伊 弉 諾 神 宮
「伊弉諾尊・・・是を以て、幽宮(かくりのみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて、寂然(しずか)に長く隠れましき。」 (日本書紀・神代上)
「故、伊耶那岐の大神は、淡路の多賀にまします」 (古事記・上つ巻) イザナミ神と共に国生み、神々を生む大事業を終えたイザナキ神がイザナミ神を黄泉の国に葬送し、自分は淡路島に永久に鎮座したと言う伝承に基づいたものだが 「淡路」を「淡海」の多賀とする学説もある。 -
おのころ島神社 (南あわじ市・三原町)
『古事記』『日本書紀』の国生み神話によるとイザナギ、イザナミ2神が天の浮橋の上に立って天の沼矛で海水をかきまわし、その矛先から滴り落ちた塩が固まってできたのが自凝島(おのころじま)で2神はこの島に降り、淡路島をはじめ日本の国土を生んだとされている。
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おのころ島神社 (南あわじ市・三原町)
おのころ島神社の祭神はこの伊弉諾尊、伊弉冉尊 大鳥居は高さ21.7m、間口12.7m、柱の径は3mあり平安神宮、安芸の宮島と並び日本三大鳥居と言われている。 神社の西、300m程の所に「天の浮橋」遺跡がある。
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沼 島 (南あわじ市・南淡町)
紀淡海峡に浮ぶ周囲10km、人口800人の小島、国生み神話で最初に出来たおのころ島とも最後に出来た両児(ふたご)の島とも言われているが??
いずれにしても紺碧の海に浮ぶ青い島はそう思ってみるとどことなく神秘的な雰囲気を感じさせてくれるではありませんか。