瀬戸内編>熟田津
万葉の伊予の湯と熟田津を尋ねて
道 後 温 泉
松山市の道後温泉は万葉時代伊予の湯と呼ばれ古来名高い温泉地として、『風土記』 『日本書紀』などに 仲哀天皇、神功皇后、
聖徳太子、舒明天皇、斉明天皇などが行幸したことが記されている。現在でも我が国最古の温泉として多くの観光客が訪れ四季を通じて
賑わっている。 湯の町のシンボル道後温泉本館は明治27年に建てられた木造三層楼、平成6年国の重要文化財に指定された。
東西南北どちらから見ても趣の異なる純和風建築は見応えがあります。 重要文化財のお風呂に入るなんて贅沢ですね。 2007/7/28
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道後温泉
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道後温泉
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道後温泉
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伊佐爾波神社(いざにわじんじゃ)
市電の道後温泉駅より山手の坂を上ると温泉の喧騒とは別世界、緑に覆われた延喜式内社、伊佐爾波神社が鎮座する。 建物は桃山時代の遺風を継承して江戸初期に建てられた。京都の石清水八幡宮を模したと言われ、大分県の宇佐神宮と並び全国に三例しかない八幡造りで国の重要文化財に指定されている。 祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、三柱姫大神
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伊佐爾波神社
山部宿禰赤人、伊予の温泉に至りて作る歌 巻③-322
(前略) こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭の 丘に立たして 歌思ひ 辞思はしし み湯の上の 木群を見れば 臣の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず・・・・・
『伊予国風土記』の逸文によれば聖徳太子が推古4年(596)に伊予の湯に来られた時、伊社爾波の岡に碑文を建てた。碑文は現存しないがこの岡に立って天皇が歌辞を練られたことが歌われている。
では射狭庭の岡とはどこか? 道後温泉付近の丘陵を指していると思われる。 神社の階段を上り詰め後を振り返ると湯の町を眼下に治めることができる。 かたわらに俳人 加倉井秋を(1909~1988)の句碑が立つ 伊狭庭の 湯はしもさはに 梅咲けリ
熟田津を求めて
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三津浜港
額田王の歌
熟田津に 船乗せむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 巻①-8
山部宿禰赤人、伊予の温泉に至りて作る歌 巻③-322
この歌の左注によれば 山上憶良の『類聚歌林』には、時の斉明天皇の御製とあるが、額田王が天皇に代って詠んだとするのが通説になっている。斉明天皇の7年(661) -
堀江の海
百済救援のため天皇自ら諸皇族を従えて1月6日に難波を出航、筑紫の那の大津へ向う途中1月14日に 「伊予の熟田津の石湯(いわゆ)の行宮(かりみや)」 に到着した。 いよいよ船団の出発の時が来て月も出てきたし潮もちょうどよい!さあ、出航だ!と天皇の心を額田王が詠唱したとされる。 万葉集の秀歌としても名高い歌である。さて、熟田津ですが道後温泉近くの湊と思われるが現在どこか分らない。まず最も有力視されている古三津地区の入口、三津浜港と少し北の堀江の海を訪ねてみました
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古三津地区にある万葉歌碑
宮前小学校
最も有力な候補地古三津は住宅地の中に埋もれて往時を偲ぶことは出来ませんが額田王の歌碑を求めて歩きました。三津浜港に近い梅田町郵便局前、 祓川地区の宮前小学校、古三津町の久枝神社、他にもあるようですが探すのが大変!限界でした。 -
古三津 久枝神社
久枝神社の歌碑の副碑に 「わが古里、古三津は万葉集の熟田津ではないかと江戸時代から唱える学者もある・・・」 とあり住民の思いの深さを感じるひと時でした。 街中の小さな神社でしたがここには藤原純友の駒立石があり、この地は天慶の乱(939~941)ともかかわりが深かったことを改めて知ることが出来ました。
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梅田町郵便局前
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護 国 神 社
海岸線がどの辺りまでであったのか今では明らかでないが熟田津の候補地のひとつに道後温泉の西、御幸寺山山麓説があり現在そこに護国神社が鎮座する。御幸寺山は大変姿形の良い山で温泉街からも望むことができる。 天皇が行幸された地ということで御幸の地名がついたといわれている。
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護 国 神 社
神社の境内の一角に造られた愛媛万葉苑には万葉植物が植えられて整備されている。その中にある歌碑は明治維新100年を記念して昭和42年11月3日に除幕されたかなり大きな青石に黒御影石を嵌め込み額田王の歌を万葉仮名で刻んだ立派のものでした。
熟田津爾 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜 巻①-8 額田王 -
石 手 寺
ちょっと寄り道して
四国霊場題51番札所 神亀5年に聖武天皇の勅願で伊予国主 越智玉純が創建した。楼門(仁王門)は鎌倉時代のもので国宝に指定されている。
左右の金剛力士も頭上の蟇股も慶派の秀作といわれる。入口に掛る大きなわらじはお遍路さんの健脚と安全を祈って4年に一度新調される。
大きさは片方縦4、5m 幅1、5m 約1トンの藁を使い3日がかりで編むと聞き驚きました。 -
石手寺 本堂
本堂は単層入母屋造り重要文化財(鎌倉時代)に指定されている。
高さ25mの三重塔も重要文化財! 正岡子規が夏目漱石と共によく散策に来たと言われるだけあって他にも文化財が多くあり見応えのあるお寺でした
身の上や みくじを引けば 秋の風 正岡子規(1867~1902)
境内のあった句碑の説明にはこの句は病気療養中の子規がその日引いたおみくじは 「24番凶 病は長引く也」 だったことによるそうである。 -
石手寺 三重塔
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宝 厳 寺
伊予国の名家河野氏の氏寺で時宗開祖一遍上人生誕の地とも伝えられる。 宝厳寺は伊佐爾波神社に向って左側の花街の坂を登りつめた所にある。一遍上人御生誕旧蹟の碑と小振りながら形の良い楼門形式の鐘楼門(重文)が迎えてくれる。
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宝 厳 寺
寺宝に粗末な姿で遊行する一遍上人木造(重文)があり
文明7(1475)11月19日の墨書銘がある。 境内には正岡子規、斎藤茂吉、川田順等の歌碑、句碑が建っている。 色里や 十歩はなれて 秋の風 子規 -
太山寺本堂(国宝)
太山へ 登れば汗の 出でけれど 後の世思へば なんの苦もなし 四国巡礼52番札所 ご詠歌
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本堂・中備(なかぞなえ)
県下最大級の木造密教寺院で真言宗智山派に属する。 本堂は桁行七間、梁間九間、入母屋造り本瓦葺き、正面の柱間すべてに蔀戸を備えている。
全体に和様を基調にした中備は蟇股のみが配され荘厳になっている。創建は用命天皇2(587)と言われるが、内陣の墨書銘により嘉元3(1305)に建立された ことが明らかになっている。 -
鐘楼 (県指定文化財)
真夏の暑さにご詠歌を噛みしめながら 安定感のある袴腰の鐘楼の菱格子から透けて見える緑を涼しく感じた一日でした。
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松 山 城
松山市の中心部、標高132mの勝山山上に雄姿を見せる連立式平山城で、加藤左馬之助嘉明が1603(慶長8)に築城した。改築が重ねられ現在の天守閣は1856年に再建されたもので重要文化財になっている。 城内には戦術的に役割を果たす重厚な櫓や門が幾重にも備えられ多くは重要文化財に指定されている。
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松山城
天守閣からの松山市内の眺望はすばらしい。 勝山の麓、県立美術館分館、萬翠荘には夏目漱石と一時体調を崩した正岡子規が同居した庵が再現してある。
ホームページ作成のあたり下記の資料を参考にさせていただきました
万葉の歌 中国・四国編 (保育社)
万葉集 桜井満訳 (旺文社)
万葉の旅(下) 犬養孝著 (教養文庫)
日本の国宝 週刊朝日百科 025 (朝日新聞社)