瀬戸内編>倉橋島
遣新羅使の足跡を訪ねて
広島県倉橋島 2004/11/27
長 門 の 島
風早の浦(広島県安芸津町三津)を船出した一行が長門の島に着いたのはその日の夕方と思われる。
石走(いはばし)る 滝もとどろに 鳴く蝉の 声をし聞けば 都し思ほゆ 大石蓑麻呂 巻15-3617
長門の島は現在の広島県安芸郡の倉橋島とされている。一行はこの地に停泊し8首の歌を残している。(巻15-3617~3624)
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音戸の瀬戸 (呉市側より倉橋島を望む)
約八百数十年前、平清盛によって開削されたと伝えられる。瀬戸内海航路の要衝とされ潮の流れが速いため難所とされている。
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音戸の瀬戸
昭和36年日本初のアーチ型螺旋式高架橋ができ呉市と陸続きになり島の南、桂浜へもここから車で30分で行けるようになった。
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音戸の瀬戸
橋の下には清盛塚があり、音頭瀬戸公園には清盛の「日招像」が建てられている。完成まであと一歩と迫った時、沈みかかった夕日を金扇をかざし「返せ、返せ」と太陽を舞い戻らせその日のうちに工事を完成させたという。 この他にも彼にまつわる話が多い。
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倉 橋 島
広島県下では一番面積が広く、古くは長門島と呼ばれ瀬戸内海航路の寄港地として、また内海随一の造船の基地として栄えた。
音戸の瀬戸から車で30分ほどで目的地倉橋町本浦に着くが途中、宇和木峠を越えると倉橋島の最高峰火山が望める。
海抜406mカルストの山である(写真下、左) ここから瀬戸内海が展望できるのでかつて烽火台があったことからこの名がつけられた。 -
倉橋町本浦
「安芸国の長門の島にして磯辺に舟泊まりして作る歌5」 また 「長戸の浦より舟出する夜に月の光を仰ぎ観て作る歌3首」の 万葉歌8首はこの辺りで作られたものと思われる。 右手桂浜は「長門の島の小松原」(15-3621)にふさわしく白砂青松の日本渚百選にも選ばれているが、現在はご覧の通り松が枯れ、風光明媚とは言えず残念! なんとかならないものでしょうか?
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桂浜
長戸の浦より舟出する夜、月の光を仰ぎ見て作る歌3首 (巻15-3622~3624)
月読の光を清み 夕なぎに水手(かこ)の声呼び浦廻漕ぐかも
山のはに月傾けば いざりする海人の燈火沖になづさふ
我のみや夜舟は漕ぐと思へれば 沖辺の方に楫の音すなり
夜の船出は珍しい。月明かりも潮時もよかったのか 船出は自分たちだけかと思っていたら沖の方から楫の音が聞える というよろこびに似た共感が驚きとなって伝わってくる。 -
万葉歌碑
桂浜の松原に巨大な花崗岩の歌碑がある。 台石を入れると高さが7メートル以上あるという。昭和19年(1944)、井上政雄氏の揮毫により遣新羅使人の歌8首すべてと粟田元次氏の解説文が上下2段刻まれている。 それにしても枯れ松が哀れでした。
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万葉歌碑
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万葉歌碑
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桂浜神社
桂浜の北側に鎮座する桂浜神社は宇佐八幡宮を勧請し、宗像三女神を併祀している。 創建は確かでないが遣新羅使人の歌に 「・・・幾代を経てか神さび渡る」 とあるので何らかの形で航路の安全を祈願する神が祀られていたのではないかと思われる。
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桂浜神社
文明12年(1480)建立の本殿は柿(こけら) 葺き、前室付き、三間社流造りで国の重要文化財に指定されている。
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万葉の里
歩いて10分ほどのところに歴史民族資料館、造船歴史館などがありその一角に万葉の里公園がある。
「萬葉集遺跡 長門嶋之碑」 と題して万葉学者 故犬養孝氏の揮毫の大きな歌碑があった。
我が命を 長門の島の 小松原 幾代を経てか 神さび渡る (巻15ー3621) -
江ノ洲川
山川の清き川瀬に遊べども 奈良の都は忘れかねつも
磯の間ゆ激つ山川絶えずあらば またも相見む秋かたまけて (巻15ー3618~3619)
遣新羅使人達の碇泊地はどこか?現在江ノ洲川の水嵩は少ないが上流はかなり山手になり谷川として激しく流れ海に注いでいたと思われるので一行が碇泊したのは本浦の江ノ洲川辺りではという説がある。 -
長門の造船歴史館
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長門の造船歴史館