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五 島 福 江 島
万葉集の西の果てを訪ねる 2006/9/9~10
万葉集をひもとき読んでいるうちに一度は行ってみたいと思っていた万葉故地の一つだった。 わくわくしながら長崎港からジェットフォイルに乗る。
所要時間1時間25分で目的地、福江港に到着。長崎県は市内もさることながらこの五島列島もキリシタンが多く、異国情緒豊かな教会が数多い。
白亜の天主堂、また赤レンガのゴッシク様式の教会と青い海とのコントラストはこの島を訪れる者のロマンをいやがうえにもかきたててくれます。
『肥前風土記』には遣唐使船が「美彌良久(みみらく)の崎に到り、此処より発船して西を指して渡る」とある。 旅の初めは遣唐使船の寄港地へ。
大船に真楫しじ貫き この吾子を唐国へ遣る 斎へ神たち 光明皇后 巻19-4240
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魚津ヶ崎公園
ギョウガサキ?絶対に読めませんよね。此処が例の遣唐使船日本最後の寄泊の地として『肥前風土記』に記載があるところ、福江島の真北に位置し今では公園として整備され,それは風光明媚なところです。
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魚津ヶ崎公園
此処から4艘の遣唐使船が舳先を連ねて出航したのでしょうか。 西へ西へ・・・
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三井楽町・白良ヶ浜万葉公園
三井楽町・白良ヶ浜万葉公園
『万葉集』の美彌良久(みねらく)、『肥前風土記』の美彌良久(みみらく)、『続日本記』の旻楽(みみらく)も同じ地名で現在の福江島、西北端の三井楽町に当たる。
この町に入るとすぐ「西の果て万葉の里」と書かれた石碑が目に入る。 この一帯が白良ヶ浜万葉公園として美しく整備されている。万葉集 巻16の「筑前国の志賀の白水郎(あま)の歌10首」とその左注によると、神亀年間(724~728)、大宰府が筑前国宗像郡の百姓津麻呂に対馬に食糧を送る船頭役を命じた。
津麻呂は糟屋郡志賀村の海人荒雄のもとに行って、「大宰府からの命令ではあるが自分は年老いてしまって海路に堪えられそうにない。申し訳ないが代って行ってもらえまいか」と頼んだところ、荒雄は「郡は違うがいつも同じ船に乗っている。心は兄弟より篤く、あなたのためなら殉死する覚悟で引き受けます」と快く承知してその仕事に従事した。
肥前国松浦県美彌良久の崎から対馬に向けて船出した。出るや否や、空が暗くなって暴風雨になり、順風を得ず海中に沈んでしまった。
残された妻子が恋しい思いに堪えきれずこの歌を詠んだ。一説には筑前の国守、山上憶良が妻子の悲しみに同情してこの歌を作ったとも言われている。 (巻16-3860~3869)
大君の 遣はさなくに さかしらに 行きし荒雄ら 沖に袖振る (16‐3860)
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三井楽町・白良ヶ浜万葉公園
この歌碑は10首中最初の歌で揮毫は犬養孝氏。
(歌意) 天皇の命令でもないのに自ら進んで行った荒雄は沖で袖を振っていることよ。
荒雄らを 来むか来じかと 飯盛りて 門に出で立ち 待てど来まさず (16-3861) -
『蜻蛉日記』にも「みみらく」の地名が
『蜻蛉日記』は藤原道綱の母(995年没)の日記で、夫の摂政関白 藤原兼家は色好み、その心変わりを恐れ悩み苦しむ日々を綴ったもので女流日記文学の草分けと言われている。夫の浮気を恐れ悩やみ暮らすこと10年、常に彼女を慰め励まし続けてくれた母が亡くなり悲しみのあまり病の床についた時枕辺の祈祷僧らの雑談に「みみらくの島へ行けば亡くなった人に会える」という話を耳にし「母に会いたい」との願いを詠んだ歌
ありとだに よそにてもみむ名にしおはば われに聞かせよみみらくの島
白良ヶ浜万葉公園の海の見える高台に建っている -
高崎鼻公園に建つ歌碑 『蜻蛉日記』より
いずことか 音にのみきく みみらくの 島がくれにし 人をたずねむ
病床にあって「母に会いたい」との願いの歌を見舞いに来ていた兄が聞き、妹を不憫に思い詠み贈ったもの。日本の西の果てならば西方極楽浄土に一番近い所、阿弥陀信仰盛んな時代、死者があの世とこの世を行き来できる島と思われていたのかもしれません。 -
柏 崎 海 岸
旅立ちの岬として有名な三井楽町の柏崎海岸は東シナ海に面して荒海の削られた海触岩に覆われています。
この日、比較的に波は静かでしたが海の色は群青そのもの砕ける波の白さもひときわでした。向かいは姫島です -
柏 崎 海 岸
万葉集には天平5年(733)の遣唐使のひとりに任命された人の母親が詠んだ歌が残されています。 (巻9-1791)
旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽ぐくめ 天の鶴群
旅人が仮寝する野に霜が降りたなら、我が子を羽根で包んでやっておくれ空を飛ぶ鶴の群れよ
母が子供の無事を祈る心情が切々と伝わってくる。 東シナ海に面した遣唐使旅立ちの路に歌碑が立っている。 -
空海記念碑・辞本涯
804年 遣唐使の一員となった留学僧空海はここ柏崎から唐に向かって旅立ちました。「辞本涯」(じほんがい)は弘法大師空海の言葉で、「本涯」とは
本国と言う意味、「辞する」は自分の故郷である日本を離れる事を意味しています。 -
空海記念碑・辞本涯
遣唐使は天皇の命を受けると難波津を出航、瀬戸内海を西に進み筑紫の那の津を経て最後の寄港地、三井楽を目指します。 日本の最果ての地に別れを告げ果てしない大海原へ旅立ちの心情はいかばかりか・・・
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玉之浦町へ 空海ゆかりの地を尋ねて
大宝の浜
空海は804年に入唐して長安で恵果阿闍梨に師事、真言密教の真髄を学び、806年に帰国した。 その際に海が荒れ福江島の大宝の沖に漂着したと伝えられる。 現在の玉の浦町大宝の浜は福江島の南西にあり、左手は静かな玉之浦湾、右手に荒海東シナ海、遥か洋上にはいくつかの島を望むことが出来る大変美しい海です。 -
大宝寺
上陸した空海はそれまで三論宗が盛んだったこの地域に布教活動を始め広く真言宗を広めた。ゆかりの寺、大宝寺はのちに西の高野山とまで呼ばれるようになった。
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大 瀬 崎 灯 台
日本の最西端まで少し足を延ばした。東シナ海に突出した断崖に立つ白亜の灯台は200万カンデラという明るさで西の海の航海の安全を守っている。 灯台の近くまで歩いて行きたかったけど時間の関係で断念! 展望台から見下ろす絶景はカメラのビューポイント ♪ d(⌒o⌒)b♪
ホームページ作成にあたって下記資料を参考にさせていただきました。
『万葉の歌』 人と風土 九州編
犬養孝著 『万葉の旅』(下)
福江観光ガイドブック、 遣唐使ふるさと館パンフレット