九州編>志賀島
金印と万葉の島
志賀島は東西約2km、南北約3.5km、面積約6平方キロ、島の周囲は約12キロの小島、
行政上は福岡市東区に属している。 江戸時代(1784)金印の発見で一躍有名になったが
この島は知る人ぞ知る 万葉の宝庫なのです.。 「防人の歌」 「遣新羅使人の歌」 「志賀の
白水郎(あま)の歌」など志賀を詠んだ歌が23首ほどある。歌碑も10基あり 歌碑めぐりしながら
島を一周するのもおもしろい
-
志賀島
中央に浮ぶのが志賀島、手前が玄界灘、向うが博多湾、「海の中道」(和白町奈田から突出し志賀島に及ぶ、約12キロ)によって陸続きになっている
-
海ノ中道
前方に志賀島を望む 左は博多湾
志賀島で詠まれた歌の大半は防人の歌や遣新羅使人の歌。彼らは祖国防衛、その他の目的で東国あるいは大和から遠く艱難辛苦の旅を強いられた。使命に耐えながら望郷の念に身を焦がした様子が偲ばれる -
志賀海神社
海の神としての古い信仰を持つこの社は玄界灘を活躍の場とした海人集団の守護社でもあった。当地域は海人部(あまべ)を統率した古代の有力氏族 安曇(あずみ)氏の発祥の地である。先ずは志賀海神社に参拝し、島を右回りで周遊することにしました
-
万葉歌碑(1号碑) 神社境内
ちはやぶる 鐘の岬を 過ぎぬとも われは忘れじ 志賀の皇神 作者未詳 (巻7-1230)
(波の恐ろしい金の岬を無事に過ぎたけれど、私は海の守護神である志賀の皇神(すめかみ)を忘れない)
揮毫は元宮司 安曇磯興氏 -
万葉歌碑(8号碑) 志賀島小学校内
志賀の浦に いざりする海人 家人の 待ち恋ふらむに 明しつる魚 (巻15-3653)
筑紫の舘に至って遥かに故郷を望んで悲しみ傷んで遣新羅使人の作った歌 作者は未詳
(志賀の浦で漁をしている漁師は 家族がしきりに帰りを待っているであろうに、 夜の明けるまで魚を釣っていることよ)
揮毫は九州大学名誉教授 干潟龍祥氏 -
万葉歌碑(3号碑)
国民宿舎しかのしま苑の庭、博多湾に面して建つ揮毫は人形作家で無形文化財の鹿児島寿蔵氏志賀の白水郎の釣りし燭せる いざり火乃ほのかに妹を見無よしもか裳 作者未詳 (巻12-3170)
(志賀の海人が釣をして灯している漁火のように、ほのかにでも妻を見るてだてが欲しいことよ) -
万葉歌碑(9号碑)
第3号碑より海岸を西へ行った防波堤に建つ揮毫は歌人の入江英雄氏
沖つ鳥 鴨とふ船は 也良の崎 たみて漕ぎ来と聞こえこぬかも (巻16-3867)
筑前国の志賀の白水郎(あま)の歌十首のうちの一首
(鴨という名の船が也良の崎を廻って漕いでくるという知らせが聞こえてこないかなあ) -
金印公園
天明4年(1784) 百姓 甚兵衛が叶の崎の水田から偶然に掘り出した金印によって一躍有名になった志賀島。現在、その場所が史跡公園化されている。狭い海峡の対岸には能古島が浮び 今でも絶えず船舶が行き交う。9号碑に詠まれている「也良の崎」はこの島の先端にある
-
金印公園
発掘された金印は「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)と印字され 重さ108.7g 高さ2.3cm、一辺が2.4cの方形
中国の史書『後漢書』に西暦57年「奴国」の使者に印綬を授けたことが記されている。昭和29年の国宝に指定され現在福岡市博物館において一般公開されている -
能古島(のこのしま)
風吹けば 沖つ白波 かしこみと 能許の泊に あまた夜ぞ寝る
遣新羅使人の歌 (巻15―3673)
風が吹くと沖の白波が恐ろしいので、能古の船着場で幾晩も幾晩も寝ることよ -
万葉歌碑(6号碑)
蒙古塚付近、博多湾に面して建つ
志賀のあまの 塩やく煙 風をいたみ 立ちは昇らず 山にたなびく (巻7―1246)
(志賀の海人の塩を焼く煙は 風が強いので立ち上らず山にたなびいている)
揮毫は郷土史家の筑紫豊氏 -
蒙古塚
元寇襲来は文永の役(1274)、と弘安の役(1281)の2度にわたり、元の大軍が日本に攻め寄ったもので博多湾一帯が主戦場になった。志賀島に難破して捕らえられた蒙古兵約120人はこの地で首を切られたという。昭和2年、仏教徒を中心に供養塔が建立された
-
蒙古の首塚
誰が供養したのか蒙古兵の供養のため建てられた五輪塔が数十基 海岸に風化して長年月を経ていた
供養塔が建てられた時にここに集められ共に供養される事になった -
大崎展望台
玄海灘が一望できます 少し離れたところにあるのが志賀海神社沖津宮、手前小高い山の頂きに中津宮がある。引き潮の時は歩いて渡れるそうです
-
万葉歌碑(2号碑)
大崎展望台近くの小高いところに建つ志賀の山 いたくな伐りそ 荒雄らが よすがの山と 見つつ偲はむ
志賀の白水郎の歌十首のうちの一首 (巻16―3862)
(山の木をひどく伐採しないでください いまだ還らぬ荒雄のゆかりの山と見ながら偲びたい)
揮毫は文学者の倉野憲司氏 -
荒雄の碑
巻16の「由縁ある雑歌」の中に「志賀の白水郎(あま)の歌」10首がある。そこに荒雄という海人の物語が書かれている。当時、対馬に駐留する2千人余りの防人に食糧を送るため、宗像の津麻呂に命が下ったが老齢と病気のため、この役目を志賀の海人荒雄に頼んだ 新米のとれる9月は台風の時期と重なり命がけの役目だったが荒雄はこれを引き受け出航したが、その直後暴風雨に遭い遭難した。そのため残された妻子達が彼を偲びこの歌を作った (巻16―3860~3869)
-
万葉歌碑(5号碑) 国民休暇村
大船に 小船引きそへ かづくとも 志賀の荒雄のに かづきあはめやも (巻16―3869)
(大きな船に小船を引きつれて海底に潜って捜そうとも志賀の荒雄に会うことが出来ようか)
この歌郡は一説に筑前国守山上憶良が妻子の傷みを悲しみ志を述べて作ったという 揮毫は書家の石橋犀水氏 -
志賀海神社・沖津宮
国民休暇村の東 勝馬集落を抜けうしろの小高い山の頂に中津宮がある 参道を 下って海岸に出るとその先に沖津宮がある。 引き潮の時は歩いて渡る事が出来ます
-
万葉歌碑(10号碑)
志賀の海人は藻刈り塩焼きいとまなみ 髪梳の小櫛取りも見なくに
石川少郎の歌 (巻3-278)
(志賀の海人は藻を刈ったり塩を焼いたりして暇が無いので髪をすく櫛を手にとってもみないことだ)
志賀海神社沖津宮に向かう堤防の内側に建つ
揮毫はデザイナーの松岡誠造氏 -
万葉歌碑(4号碑) 潮見公園展望台
志賀の浦に 漁する海人 明け来れば 浦廻漕ぐらし 楫の音聞ゆ 作者未詳 (巻15―3664)
(志賀の浦で漁をする海人は夜が明けてきたので、岸をめぐって漕いでいるらしい 櫓の音が聞こえる)
この展望台に上ると唐津から北九州の山並みが一望できる -
博多湾の夕日
夕焼けが博多湾を茜色に染め 旅の終りを飾ってくれた。
島をほぼ一周の歌碑めぐり いにしえ人の旅は命がけ、それだけに旅先で家郷を思う気持は現在の私たちには計り知れないものがあったことでしょう。 一首一首を心にとどめ、再び訪れる日のあることを願って ♪ d(⌒o⌒)b♪