九州編>黒之瀬戸
黒 之 瀬 戸
万葉集の南限の地を訪ねて
隼人の 薩摩の瀬戸を 雲居なす 遠くも我は 今日見つるかも 長田王 (巻3-248)
博多からリレーつばめに乗り新八代で九州新幹線に乗り換え鹿児島県の出水駅で下車。出水麓武家屋敷などを見学し車で阿久根市から長島へ。
この阿久根市と対岸の長島にはさまれた全長約3キロの海峡が黒之瀬戸と呼ばれ、万葉集に詠われている隼人の薩摩の瀬戸と言われている。
潮流の激しさで恐れられていた海峡も 現在は阿久根市と長島を結ぶ橋が昭和49年に開通し、天草国立公園として観光の名所ともなっている。
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長田王(ながたのおほきみ)
系統未詳 奈良朝の風流侍従のひとりと称される人。天平6年2月朱雀門での歌垣で五品以上の風流者の筆頭とされたとある。(続紀) 長田王が九州に派遣されたのははっきりしないが慶雲2年(705)とされる。 他に「和銅5年(712)4月 長田王を伊勢の斎宮に遣はす時、山辺の御井にして作る歌」が巻1の81~83にある
山の辺の御井(みい)を見がてり 神風の伊勢をとめども相見(あいみ)つるかも
うらさぶるこころさまねし ひさかたの天(あめ)のしぐれの流らふ見れば
海(わた)の底沖つ白波 龍田山いつか越えなむ 妹があたり見む
(2首目3首目の歌は御井の所の作でなくその時誦された古歌かとされる) -
万葉歌碑
黒之瀬戸に架かる橋を渡り対岸の長島に渡ると小高い丘の上に建っている
揮毫は斎藤茂吉の弟子で出水市出身の歌人佐藤佐太郎氏
建立時の昭和34年ごろはこの高台から瀬戸の見晴しが良かったことと思われるが、今では木立に遮られて垣間見る程度になっているのが残念! -
長田王の作る歌一首 (巻3-248)
隼人(はやひと)の薩摩の瀬戸を 雲居なす遠くも我は今日見つるかも
遠く筑紫の果てまで来て隼人の住む薩摩の瀬戸を空の彼方の雲を見るように今日初めて見たことよ・・・深い感慨を述べている -
薩摩の瀬戸
大伴旅人は養老4年(720)に征隼人持節大将軍としてこの地に在官している。この歌は旅先の景色を観て薩摩の瀬戸の巨岩も 鮎の走る吉野の激流には及ばないと故郷に思いを馳せ望郷の心を詠ったもの。 この歌碑は長島町立田尻小学校の校庭に黒之瀬戸を見下ろすように建っている。
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薩摩の瀬戸を詠んだ歌
万葉集には薩摩の瀬戸を詠んだ歌がもう一首ある
帥大伴卿、吉野の離宮を遥かに思ひて作る歌 (巻6-960)
隼人(はやひと)の瀬戸の巌(いはほ)も 鮎走る吉野の滝になほしかずけり
HP作成にあたり下記の資料を参考にさせていただきました
万葉集 桜井満訳注 旺文社
万葉の歌 人と風土 (九州編)
万葉の旅(下) 犬養孝著
万葉集事典 稲岡耕二編