山陰編>江津周辺
人麻呂と依羅娘子
依羅娘子(よさみのおとめ)生誕の地に古代ロマンを求めて
柿本人麻呂は晩年に石見国の国司として赴任、「角の里」の依羅娘子(よさみのおとめ)と巡りあいます
そこで人麻呂の現地の妻として暮したと思われます。 娘子の歌は人麻呂の歌と共に万葉集巻二の
相聞歌に一首と挽歌に二首残されている 島根県江津市周辺は「石見の海」をはじめ二人の愛の
軌跡をたどるにふさわしい万葉故地にあふれています
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伊甘神社(いかむじんじゃ)
人麻呂が赴任した国府があったと思われるところ。山陰本線浜田駅より一つ江津より 下府(しもこう)駅の東方の伊甘神社後方にあったのではと思われる。
拝殿脇には高さ35mのイチョウと高さ20mのムクノキがあり共に市指定天然記念物になっている -
石見国府址
伊甘(いかむ)神社の拝殿横、イチョウの木の下に「国府址」の碑が建っている
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恵良の里
依羅娘子の生誕地と言われる二宮町恵良(えら)の里。娘子の出身についてはいろいろな説があるが恵良の里に住んでいたとの事から土地の人は「恵良姫さん」と呼んでいる。 「恵良」が「依羅」に変ったとの説もある。ほとんど人に会わない静かな村です。遥かに高角山を望む事が出来ました。
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恵良の里の万葉歌碑
柿本人麻呂の妻依羅娘子、人麻呂と相別るる歌一首
な思ひと君は言へども 逢はむ時いつと知りてかわが恋ひざらむ (巻②-140)
(そんなに思ってくれるなとあなたは言われますが、再びお会いする時がいつと分っていればこんなにも恋しく思わないでしょう)
揮毫は文学博士清水克彦氏 -
二宮町神主
一説に石見国国府のあった所といわれている。
万葉歌人依羅娘子の出身地ということで『万葉集』に対する住民の関心は高く、ここ二宮交流館でも生涯教育の拠点として地区民の熱意により歌碑が建立された -
万葉歌碑
柿本人麻呂死(みまか)りし時、妻依羅娘子の作る歌二首
今日今日とわが待つ君は 石川の貝に交じりてありといはずやも
(今日は今日はと私が待っるあなたは石川の貝に交じってしまったというではありませんか)
直の会ひは逢ひかつましじ 石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
(じかにお会いすることはもはや出来ないでしょう 石川に雲よ 立ち渡れ、雲を見てあなたを偲びましょう)巻②-224・225 -
多鳩神社
古代国造りの功労者、八重事代主命(海神タバト神)を祀る 石見国二の宮として由緒のある神社
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多鳩神社本殿
山合のうっそうと茂る木立の中に神秘的なたたずまいを見せる 本殿は出雲地方独特の大社造り
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柿本神社 (江津市都野津町)
「姫御所」と呼ばれていた所で人麻呂が依羅娘子と暮していたと伝えられている。向かって右が神社、左は平成9年に枯死した「人麿の松」があったところに建てられた「松の館」 在りし日の松の幹を保存している
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人麿の松
樹齢800年、島根県指定の天然記念物で「歌聖松」と称されていたが残念ながら平成9年に枯死、見ることが出来ませんでした。「松の館」の横に立派な万葉歌碑があります
揮毫は元大阪大学名誉教授の故犬養孝氏 -
万葉歌碑
石見乃也 高角山乃 木際従 我振袖乎 妹見都良武香
石見のや高角山の木の間より 我が振る袖を妹身つらむか (巻②-132)
(石見の国のこの高角山の木の間から、私の振る袖を妻は見たであろうか)
万葉の時代 袖を振ることは男女の間で再び会うことを願っての呪的行為だった -
江の川(ごうのかわ)河口付近
江の川に沿ってJR三江線が江津と広島県三次を結んで川あり山あり、ローカル色豊かに走っている
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江の川
JR三江線に沿って金田町千金(ちがね)の村落まで車を走らせる 江の川はどこまでもゆったりと流れ時の経つのを忘れさせる
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人丸渡し
金田町千金と田村の境に昭和8年まで渡し場があった。この渡し場を「人丸渡し」と伝承している。人麻呂は江の川を前にして妻の住処がさらに遠くなるのを切なく振り返ったに違いない
思ひつつ かえりみすれど 大船の 渡りの山の
もみち葉の 散りのまがひに 妹が袖 さやにも見へず
嬬隠る 屋上の山の 雲間より 渡らふ月の……
(巻②―135) -
大船の渡りの山
定かではないが人麻呂が渡ったであろう江の川の対岸の山を総称している。
嬬隠(つまごも)る屋上の山
やはり対岸にある室神山(浅利富士)と思われる。女性的な山容が妻を偲ばせたのではないか…
ロマンいっぱいの万葉の旅は続きます