山陰編>因幡>国府町
万葉集終焉の地を訪ねて
2006年4月13日
京都駅発8:52の「スーパーはくと」で鳥取に着いたのはお昼前、上郡から智頭線に乗り入れる頃から雨になり霧雨に煙る鳥取駅前のロータリーでは
因幡国にふさわしい大国主命と兎のモニュメントに迎えられた。 大伴家持がこの世に残した最後の歌を訪ねる万葉集終焉の地の旅の始まりです。
因 幡 国 庁 跡
『続日本紀』のよると天平宝字2年(758)6月、大伴家持は因幡守に任命されたとある。41歳だった。時は孝謙天皇が即位、女帝の信頼を
一身に集めた藤原仲麻呂が政治の中枢にあった。家持にとって親しかった橘諸兄が退けられ、諸兄の子、奈良麻呂も反仲麻呂運動の首謀者として
この世去った後、孤立感を強めていた矢先の遠地、因幡国への任命だった。 国庁跡は現在の鳥取県国府町にありその規模は東西150m
南北216m、面積約32000㎡ そのうち7000㎡が歴史公園として国の指定史跡として整備されている。写真は国庁跡から雨に煙る面影山を望む。
因幡三山
-
面影山
国府を中心として東に甑山(こしきやま)、西に面影山、南に今木山(いまきやま)が位置し国庁の正殿からはあたかも藤原宮から大和三山が眺められたようにここでは因幡三山を望むことができる。
-
今木山
面影山は女性的、今木山と甑山は男性の姿に見える。家持は政界から疎外される形で因幡に赴任、その寂寥たる思いはこの山の姿を見ていかばかりであったことでしょう。
-
袋川と甑山
毎日眺めては朝な夕なに大和を偲んだに違いありません。
万葉集 最後の歌
国府町を流れる袋川に架かる国府橋を渡り庁と呼ばれる集落に入り目的の家持の歌碑をめざす。犬養孝先生の『万葉の旅』には「むくの木とたもの木の大樹の下に因幡国庁跡の碑と大正11年建碑の万葉歌碑、昭和34年建碑の佐々木信綱博士の碑をたてている」とある。 ちょっと捜しました。。。。。
見つかった時は嬉しかった♪♪ 周りの様子は少し変っているがおよそ3メートルの歌碑は苔むして堂々としていた。 来て良かったと実感したひと時!
天平宝字三年春正月一日、因幡国の庁にして、饗(あへ)を国郡の司等に賜へる宴の歌
新(あらた)しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと) 大伴家持 (巻20-4516)
万葉集最後の歌であり作者、作歌年月日のはっきりした歴史的にも貴重な資料となる歌です。
-
歌碑群全景
-
万葉歌碑
藤波の散らまく惜しみ ほととぎす 今城の岡を鳴きて越ゆなり
作者未詳 (巻10-1944)
揮毫は昭和34年書家の田中馨氏
今城の岡が因幡の今木山を指すのかは疑問とのこと。 -
家持の歌碑
大正11年(1922)9月当時の鳥取県知事、岩田衛氏の揮毫になる。この歌碑の右に佐々木信綱氏の歌碑、左にもう一首万葉歌碑がある。
-
佐々木信綱 昭和34年建碑
ふる雪のいやしけ吉事 ここにして うたひあげけむ言ほぎの歌
-
因幡万葉歴史館
国府町の府に「天平のロマンが集うミュージアム」をメインテーマに因幡の古代遺跡、万葉集の世界、民族芸能などにスポットを当てた歴史博物館がある。
-
因幡万葉歴史館
犬養孝氏揮毫による大伴家持の歌碑(巻20ー4516)
-
因幡万葉歴史館
万葉と神話の庭は回遊式日本庭園で50種類の万葉植物と万葉歌碑が配されている。
-
在原行平の歌碑 (国府町)
たちわかれ いなばの山の 峰におふる まつとしきかば 今帰りこむ
古今和歌集
中納言在原行平(818~893)は平城天皇の孫で在原業平の兄にあたる。行平は斉衡2(855) 因幡の国司に任ぜられ、4年後に帰京している。 稲葉山は国庁の北東に位置する山。この歌は小倉百人一首に選ばれ、多くの人々に知られている。 -
宇部神社
武内宿禰を祭神とする因幡一の宮、武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇までの五代に仕え大臣の祖をなし、仁徳55年に因幡国に下向し本殿裏の亀金岡に草履を脱ぎ360余歳でこの世を去ったといわれる。
-
宇 部 神 社
この由緒をもって創建されたのがこの宇部神社で武内宿禰終焉之地という。石碑と草履を脱いだとされる双履石が本殿の裏にある。武内宿禰に関してはその実在も疑問視されている。記紀編纂時の創作との説もあるが・・・