山陰編>倉吉
伯耆国庁跡 と 国宝投入堂
伯耆国府跡
因幡と伯耆の万葉の旅の2日目 空は雲が切れてきたように見えるが何故か小雨・・・伯耆国庁跡に向かう。 『続日本紀』によれば元明天皇の
霊亀2年(716)4月、山上憶良は伯耆守に任命され赴任したことが記されている。これより2年前従五位下の位を受け57歳で始めて国守となる。
4年余りの伯耆守在任中、万葉集には彼の歌は見つからない。憶良ほどの歌人が一首の歌も作らなかったとは考えられないがこれも謎のひとつ
大伴家持が因幡国庁で万葉集最後の歌(巻20ー4516)を残した後、歌わぬ人になったのと似てすべては歴史の秘話として語り継がれることでしょう。
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国分寺跡
国庁から東に国分寺、国分尼寺が近接して建てられていた
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伯耆国庁跡
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伯耆国庁跡
雲の切れ間から青空が見え隠れする国庁跡に立ってみてその広大さに驚く。 これと言って目印になるものもなくただコマ札だけが国庁跡を示していた。 国庁からは伯耆富士大山の雄姿が眺められ風光明媚なかたわら、厳しい山陰の冬は日本海からの風と猛吹雪に悩まされる。
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伯耆国庁跡
その中で憶良は国守としての勤めを果たさなければならず、あの有名な「貧窮問答歌」もこの伯耆在任中に経験した庶民の飢えや寒さから来る生活苦が彼の脳裏から離れず、都へ帰った後、なかばフィクション形式にその悲惨さと絶望感を吐露したとの見方もある。 (巻5-892、893)
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三徳山 三佛寺
三朝温泉から車で10分ほど山に向かって行くと三徳山三佛寺の入り口に着く。 霧雨が降り天候は余りよくなかったが気を引き締めて登りはじめる。標高900m 山全体が国の史跡、名勝に指定されている。
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三徳山 三佛寺
開山は慶雲3年(708) 役行者が三枚の蓮の花びらを「仏教に縁あるところに落ちよ」と散華したところその一枚が伯耆の三徳山に落ち、この地を修験道の行場として開いたのが始りという。今年(2006年)秋、開山1300年祭を迎える。奥の院投入堂は役行者が法力で岩屋に投入れたといわれるお堂で断崖絶壁に浮かぶように建つ姿は見れば見るほど摩訶不思議。。。
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宿入橋(しくにゅうばし)
参詣受付で氏名と入山時間を書き入れ手渡された袈裟を首にかけ、さあ!出発です。。。三佛寺の伽藍を通り抜けいよいよ奥の院へ 宿入橋(しくにゅうばし)が結界、下を流れる川の水で身を清めたことになります。投入堂は標高470mの高さ迄登らないことには見ることが出来ません。修験の山なので道らしい道はありません。
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かずら坂
この日は小雨、特に足もとが悪いので滑らないよう慎重に、一歩、また一歩、這い登るようにしてかずら坂を登る。延々と続く木の根道だ。
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くさり坂
次に待っていたのはくさり坂鎖に身を任せてよじ登る大きな岩場。その岩を土台にして懸崖造りの文殊堂が建てられている。
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地蔵堂(重文)
一気に視野が広がり樹海に浮かぶように地蔵堂が見えてくる。 手すりの無い地蔵堂の縁を好奇心でぐるりとひと回り わァ{{{{(+_+)}}}} こわ~っ! お天気のいい日なら大山や日本海までが遠望できるそうです。 残念!!
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文殊堂(重文)
岩伝いの道は馬の背、牛の背と難路をさらに進み観音堂、不動堂の岩角をまわるとついに断崖絶壁に建つ投入堂が姿を現します。寒気を覚えるほどの感動でした。なんと美しい!!
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観音堂(重文)
役行者が投入れたから投入堂? 下から見上げることを意識して建てられているが・・・誰が? どのようにして? 疑問もつきませんでした。
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地蔵堂からの遠望
霧雨に煙る中国山地の山並み、日本海は見えませんでしたがそれなりに風情がありました ♪ d(⌒o⌒)b♪ 2006/4/14