北陸編>南越前

まぼろしの里帰(かえる)を尋ねて

福井県南越前町南今庄

み越路の 雪降る山を 越えむ日は 留れるわれを 懸けて偲はせ    笠金村歌集  (巻9-1786)

現在、敦賀から今庄まではJRもあれば国道も通っているが当時は敦賀から海路を 五幡(いつはた)、または杉津(すいづ)まで行き、そこから

山中峠か木の芽峠を越えて今庄方面に抜けたようである。 今でも歩けばかなりの難所、 冬の峠越えはなおのこと旅人を悩ませたに違いない。

可敝流廻の 道行かむ日は 五幡の 坂に袖振れ われをし思はば

                       大伴家持   (巻18-4055)

都に帰還する官人に送った別れの歌の「可敝流」(かへる)とは・・・? 

敦賀で一泊し国道476号、365号を走り、木の芽トンネルを抜け

あっという間に今庄に着いたが 少し古い資料を参考にしたので 

南条郡今庄町帰になかなか辿り着かなかった。帰はもう存在しない地名

になっていた。幸い旧帰地区を良くご存知の方にめぐり合いやっと到着。


2005年1月1日、旧南条町 今庄町 河野村 三地域が
合併し南越前町が誕生した。
私たちが捜す帰は今庄町の村落鹿蒜(かひる)で
昭和30年ごろ今庄町に町村合併されたとか・・・
現在は村落名(字名)にも使われれていないまぼろしの里となってしまった。 
しかしJR南今庄駅の北側を流れる川は鹿蒜川、川の北側に鹿蒜神社、神社の背後の山は鹿蒜山、と古代表記され往時を偲ぶことができた。
 

 

鹿 蒜 川 (かえるがわ)



日野川の支流になり、この川沿いに旧鹿蒜の里があった。

奈良時代から平安時代にかけての宿場町で北陸道を

通る旅人は今庄の宿に足を留めた。山中峠を越え鹿蒜川

沿いを今庄に抜ける道が昔の北陸道だと言われている。

今でも静かな山峡の村で鹿蒜川の瀬音を聞きながら歩くと

時の経つのを忘れそうになる。 春にまた訪れたいと思う。

 

鹿 蒜 神 社 (かえるじんじゃ)


文武2年(698)3月15日創建の古社で 加比留神社とも呼ばれる。 奈良時代より鹿蒜郷は宿駅が置かれていたこともあり

鹿蒜郷の鎮守の神として尊崇を集めていた。醍醐天皇の勅命により延喜5年(905) 延喜式神名帳に記載の式内社となった。

紫式部も越前守となった父藤原為時に従い武生へ下向する際、木の芽峠を越え鹿蒜郷で一泊、鹿蒜神社に参拝している。


 

鹿 蒜 山



鹿蒜神社の背後の山で古代から近世に至るまで多くの歌人が
歌枕として鹿蒜山を詠んでいる。
鹿蒜=可敝流は「帰る」 に通じ都から
遠く北国へ赴任した役人、また家族は都の生活に思いを馳せたに違いない。 そしてその思いは 「いつはた・・・かえる」 が 
「帰りたい」
との切なる望郷の念に変わっていったことでしょう。 

かえる山は古代人の愁いを秘めたまま今は静かに横たわっている。

ふるさとに かえる山路の それならば 心や行くと 雪も見てまし
                                 紫式部

忘れなば 世にも越路の かえる山 いつはた人に 逢はむとすらむ
                               『伊勢集』

かえる山 ありとはきけど 春霞 たちわかれなば 恋しかるべし
                              紀 利貞   『古今集』

故郷に ふたたびかえる ここちして の山を 見るがうれしき
                               松平春嶽

日 野 山 ・日 野 川


今庄から国道365号を北へ 日野川は次第に川幅を広げ

正面に日野山(標高795m)が秀麗な姿を見せてくれる。

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