北陸編>越前武生
越 前 武 生 逍 遥
味真野に万葉の悲恋を追って
味真野はJR武生駅から東、日野川を渡り約7km程ところにあり、日野山の南西に位置し現在でも静かなたたずまいを残している。
この地は第26代継体天皇が即位前に隠れ住んだ伝承があり、謡曲『花筺』(はながたみ)に土地の美女照日の前との悲恋が描かれている。
これにも増して悲しい恋の物語が万葉集に載せられたいる。 中央の官人中臣宅守(なかとみのやかもり)と 蔵部の女嬬(じょじゅ)=女官
狭野弟上娘子(さののをとがみのおとめ)との熱烈な恋の贈答歌が63首収められてあり、万葉集の中でも抜きんでた数の相聞歌郡である。
古くは狭野茅上(ちがみ)娘子と読む説もあり、万葉集研究の学者によってまちまちですがここでは狭野弟上(をとがみ)娘子とさせていただきます。
味真野苑
味真野苑は万葉集の中臣宅守と狭野弟上娘子の恋と継体天皇を慕う照日の前との愛の舞台としてロマンをテーマにして作られた庭園で
この中に、万葉館、万葉相聞歌碑、遊歩道、谷口家住宅(重文)、継体天皇ゆかりの味真野神社などがあり、四季折々の花と共に散策できる。
万葉集巻15の目次には、 ・・・・・・
中臣朝臣宅守、蔵部の女嬬狭野弟上娘子を娶(ま)きし時に、勅して流罪に断じて、越前国に配(なが)しき。
ここに夫婦の別れ易く会い難きを相嘆き、各々慟(いた)む情(こころ)を陳べて贈答する歌63首
・・・とある。 本文は(巻15-3713~3775)
天平10年ごろの話であるが身分の違い?・・・禁じられた恋? 二人の愛とは全く別な罪での流罪なのか詳しい事情はわからない。
あぢま野に 宿れる君が 帰り来む 時の迎えを 何時とか待たむ
シンボルモニュメントの台座の歌碑(左写真) 狭野弟上娘子 (巻15-3770)
味真野にいる宅守の帰京を待ちつづけている娘子の切なる願いがこめられている
狭野弟上娘子の歌
あしひきの 山路越えむと する君を 心に持ちて 安けくもなし
君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天(あめ)の火もがも (3723~3724)
中臣朝臣宅守と狭野弟上娘子との贈答歌63首の冒頭の2首ですが
2首目の歌は万葉集中、ひときわ目立つ絶唱歌として知られています
(貴方が行く遠く長い道のりを、手繰り寄せ折り畳んで焼き滅ぼしてくれる
天の火があったならいいのに・・・そうしたら貴方は行かなくてすむのに)
遠く越前まで行こうとする恋人のことを心に抱きつづける不安感と
激情にかられた願望が率直にあらわされているのに驚かされます。
味真野苑の池を挟んで向かい合うようにして娘子と宅守の歌碑が立っている。
各々6首づつ連記されてる。
狭野弟上娘子の歌 右から巻15ー3723、3747、3751、3753、3767、3772
中臣宅守の歌
別れに臨んだ狭野弟上娘子の歌(3723~3726)に対しての返歌とされる
塵泥(ちりひぢ)の 数にもあらぬ 我ゆゑに 思ひわぶらむ 妹がかなしさ
右、歌碑の揮毫は犬養孝氏 (3727)
塵や泥のようなあえて数えたてるほどもない私ゆえに
落胆しているだろうあなたがいとおしくてならない
うるはしと 吾が思う妹を 思ひつつ 行けばかもとな 行き悪しかるらむ
(3729)
心から愛しいと思っているあなたのことを思いながら越前へ
流されて行くせいでこうもひどく行き辛いのでしょうか
中臣朝臣宅守の歌 右から巻15-3728、3730、3733、3734、3764、3776
味真野神社・・・謡曲花筐(はながたみ)発祥の地
26代継体天皇には謎の部分が多い。『古事記』には応神五世の孫、袁本杼命(おほどのみこと)を近江より迎えて即位させたとあり、また
『日本書紀』は越前三国の男大迹王(おほどのおう)を迎えたとあるが大和に入るまで20年の月日を山城の地を転々したと伝えられている。
味真野にも即位前に隠れ住んだと言う伝承がある。 味真野神社近くには「継体天皇御宮跡」の石碑があり、神社にはその祖応神天皇と
継体天皇が祀られている。 世阿弥はこの伝承を謡曲の『花筐』として芸能化し、味真野を舞台に男大迹王と美しい女性照日の前との恋と
悲しい別れを描いている。別れに際し王は花篭と文を形見に残されたが照日の前は悲しさの余り発狂したという悲話が語り継がれている。
野々宮廃寺跡
味真野苑から北へ徒歩10分位の所に野々宮廃寺跡 がある。
草に埋もれ訪れる人もない昨今ですが発掘調査により白鳳時代の寺で飛鳥の大寺院に匹敵する大寺だったことが分った。
このことから越の国最大の寺院跡と思われ、ここが味真野の中心で
おそらく中臣宅守もこの辺りに住んでいたのではないかと思われています。
(福井県指定の史跡)
ちょっと寄り道
小丸城址
野々宮廃寺より北へ数分のところにある。織田信長の家臣で府中三人衆のひとり佐々成政(さっさなりまさ)が天正3年(1575)に築いた平城の跡で
県指定の史跡になっている。 現在は本丸跡と土塁や堀の一部が残っているだけで当時の面影はないが石垣には古代寺院の礎石が利用され
苔むしたたたずまいは戦国の世の栄枯盛衰をいやが上にもを感じさせられます。 土塁からは前田利家が一揆衆を弾圧した様子を記した
文字瓦が出土している。 現在、武生市指定文化財として越前の里資料館に展示されている。
紫式部公園
武生市街のほぼ中央部、3000坪という広大な敷地に平安朝の趣を伝える庭園を再現したもので紫式部が越前国司に任ぜられた父藤原為時
と共に塩津山を越え、五幡(いつはた)、鹿蒜(かへる)、の山道を辿り国府のあった武生を訪れたのは長徳2年(996)のことでした。都の女性が
地方で暮らすことがほとんどなかった時代一年余りを武生で暮らした彼女に北陸の地の文化が与えた影響は大きかったものと感じられます。
紫式部公園は日野山をはじめ武生盆地を囲む山々を借景に池や
築山を配置し、釣殿を造り、池泉周遊式庭園の形をとっている。
ここからの日野山の遠望が一番素晴らしいそうです。
式部が武生に着いたその年は雪が多く標高795mの日野山も
深い雪に覆われた。
ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがえる
京都 大原野の小塩山(おじおやま)の雪を思い出したのでしょうか
雪を被った日野山の杉群が小塩山の松に似ていると詠うこころの
裏を返せば限りない望郷の念だったことでしょう。
左は平安時代のまま再現された総ひのき造りの釣殿。
月見、雪見の宴、詩歌管弦の舟遊びなど紫式部を偲び王朝に思いを
馳せるひと時を過ごすことが出来ました。 下は日野山を仰ぐ紫式部像