北陸編>敦賀
敦賀付近の万葉を訪ねて
三 方 五 湖
福井県の三方町と美浜町とにまたがる三方五湖は若狭湾に面した景勝地。 下の写真の左上部が若狭湾。
久々子(くぐし)湖、日向(ひるが)湖、水月湖、菅湖、三方湖、五つの湖は水質、水深が異なり湖面の色も微妙に違う。
レインボーラインを通り展望台に登れば五湖全体を眼下に望むことができる。
三方の海
若狭なる 三方の海の 浜清み い往き還らひ 見れど飽かぬかも 作者未詳(巻7-1177)
ここで詠われている「三方の海」は五湖の一番南の三方湖を
さしていると思われる。三方湖は淡水湖で面積も広く風光明媚、
小浜から敦賀に向かう若狭街道沿いに面しているのでまず
旅人の目に入る。 幾日も山野を歩いてきた旅人が急に開けた
美しい湖を見て「いくら見ても見飽きない」と感動を詠ったもの
角 鹿 の 海 (敦賀湾)
万葉の昔、敦賀から北国へは敦賀湾に沿った海路を北へ進んだ。
角鹿(つのが)の津を出た船は 田結(たい)、赤崎、松ヶ崎、と進み、五幡(いつはた)、
杉津(すいづ)あたりから陸路を山中峠か木の芽峠を越えて今庄方面にぬけたようである。 その様子を万葉歌人笠金村が残している。
下の写真は赤崎付近から万葉集に詠われた手結(たゆい)が浦を望む。 (現在の田結崎 背景は敦賀半島)
手 結 が 浦
角鹿津にして船に乗りし時に、笠朝臣金村の作れる歌一首
越の海の 角鹿の浜ゆ 大船に 真楫貫きおろし いさなとり
海路に出でて あへきつつ わが漕ぎ行けば 丈夫(ますらを)の
手結が浦に 海未通女(あまをとめ) 塩焼くけぶり 草枕
旅にしあれば 独りして 見る験(しるし)無み わたつみの
手に巻かしたる 玉襷 懸けて偲ひつ 大和島根を
反歌
越の海の 手結が浦を 旅にして 見ればともしみ 大和偲ひつ
(巻3-366~367)
五 幡 の 坂
可敝流廻(かへるみ)の 道行かむ日は 五幡の 坂に袖振れ われをし思はば 大伴家持 (巻18-4055)
越中国守として赴任していた家持が都から橘諸兄の使いで来ていた田辺福麻呂(さきまろ)をもてなした時の歌で
「あなたが都へ向かう時、可敝流(かへる)のあたりを通られるなら五幡の坂で袖を振ってください。私を思って」
敦賀湾に面した五幡から山路を鹿蒜(可敝流)に向かう峠が五幡の坂か? いつはた・・・かえる 五幡と鹿蒜は地名の掛詞になっている。
当時の旅は死と隣り合わせ 特に峠越えをするときの危険は大きい。 旅人は望郷の思いを、妻(妹)は旅路の夫を思って歌に詠み込んだ。
式内五幡神社
国道8号線から少し外れた小高い所にひっそりと鎮座する。 今はすっかり荒れ果て訪れる人もないわびしげな神社も
昔はここから越路へ旅する人たちが道中の安全を祈願した大切なお社だったらしい。 昭和51年、長く絶えていたのを
再建したことが松たけ石に刻んである。また3基ある石灯籠のひとつの軸部に先の大伴家持の歌が彫ってある。ここには
帰廻(かへるみ)の道行かむ日は・・・・・・と彫られている。
ちょっと寄り道
気 比 神 宮
大宝2(702)の建立と伝えられ仲哀天皇を初め7柱が祭神として祀られ、北陸道の総鎮守 越前国一の宮となっている。
正面の大鳥居(赤鳥居)は寛永年間 佐渡国鳥居が原で伐採された榁樹の一木で両柱が建てられている。 高さ11mの両部鳥居で
国の重要文化財に指定されている。 古事記には「気比の大神」の条に応神天皇と名前を交換したという伝えが載せられている。
境内には松尾芭蕉の「奥の細道」の足跡(元禄2年8月)があり芭蕉の像と句碑が立っている。
月清し 遊行のもてる 砂の上 芭蕉
気比の松原
気比の大神が一夜にして12000本の松原を造ったという
伝説がある。現在では17000本を数え、美保の松原、虹ノ松原
と並ぶ日本三大松原のひとつで市民の憩いの場になっている。
金ヶ崎城跡・金ヶ崎宮
ふたつの歴史が残る金ヶ崎城、 ひとつは延元元年(1336)10月
後醍醐天皇は新田義貞に命じ皇子尊良(たかなが)、恒良(つねなが)両親王を奉じ北陸道を下向させ金ヶ崎城に篭城。
ここに足利尊氏軍が陸海より総攻撃、翌年3月落城し尊良親王以下300人が討ち死にした(享年27)
恒良親王も一時難を逃れたが2年後の4月毒殺された(享年15)
明治時代になって両親王を祭神として建立されたのが金ヶ崎宮である。
もうひとつは元亀元年(1570)4月織田信長は朝倉義景打倒のため3万の兵を率いて敦賀に進軍、
なお越前に攻め入ろうとした時 浅井長政の裏切りがあり信長軍は浅井、朝倉に挟まれ窮地にたった。
この時金ヶ崎城に残りしんがりを勤め難関を救ったのが木下籐吉郎、この活躍で彼は出世していく。
また浅井家に嫁いだ信長の妹お市の方はこの危機を知らせる為 両端を紐で結んだ袋に小豆を入れ信長に届けたと言うエピソードも伝えられている。