北陸編>高岡
高岡の万葉故地を訪ねて
越中の万葉故地のほとんどが現在の高岡市周辺に存在する。中でも大伴家持が天平18年(746)から、天平勝宝3年(751)までの
5年間を過ごした国庁のあった高岡市伏木町を中心にした地域に点在する。 家持は万葉集に約485首の歌を残しているが
越中在任中の歌はその半数に近い約220首に及ぶ。 29歳から34歳までの壮年期を、都から遠く離れた風土も人情も異なる鄙の地で
過ごしたことが家持をして多くの名歌を作らしめたといえるのではないか。 送別の夜、別れがたい思いをこめた歌を詠んでいるいる
しなざかる 越に五箇年(いつとせ) 住み住みて 立ち別れまく 惜しき宵かも (巻19-4250)
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高岡
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射水川(いみずがわ)
高岡市と新湊市の境を流れる現在の小矢部川で、その東に庄川があり共に富山湾にそそいでいる。
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二上山(ふたかみやま)
朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唄う船人 (巻19-4150)
官人ののんびりとした朝の寝覚めと朝早くから仕事をしている船頭の歌声の対比がすばらしい
小矢部川の向うに二上山(ふたかみやま)の秀麗な姿を望むことが出来る -
伏木 勝興寺付近 越中国守館跡
勝興寺に向かう坂道の途中、伏木気象観測所の中にこの碑が建っている。 この辺りが東館と呼ばれる国守館の跡と推定される。
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越中国守館跡
伏木台地と呼ばれる高台で眼下を小矢部川がながれ、 空気の澄んだ日は富山湾をはさんで立山連峰を望むことが出来る。
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越中国庁跡・勝興寺
越中の国庁は勝興寺境内にあったとされます。勝興寺は戦国時代、越中一向一揆の拠点となった中世風の豪壮な伽藍を持ち国の重要文化財に指定されている
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越中国庁跡・勝興寺
平成11年からの本堂改修工事のため残念ながら拝観できませんでした。
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越中国庁跡・勝興寺
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唐門(重文)
あしひきの 山の木末(こぬれ)の ほよ取るりて かざしつらくは 千年寿(ほ)くとぞ (巻18-4136)
国庁碑の裏に刻まれている歌、 「ほよ」は宿り木のことで、髪飾りにして長寿をねがったもの -
太鼓楼(重文)
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大伴家持 歌2首
天平勝宝2年3月1日の夕べに、春の苑の桃李の花を眺めて作る歌2首 大伴家持 (巻19-4139,4140)
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伏木小学校の校庭に建つ歌碑
春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つをとめ
わが園の 李の花か 庭に散る はだれのいまだ 残りたるかも -
寺井跡
勝興寺の北西の角に寺井の伝承地がある。この辺りは古く清泉があったといわれているが今は水道工事などで水も出なくなり埋められてしまった。
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寺の井戸
「寺の井戸」なら勝興寺か国分寺にあった井戸ではないかと推定され、またこの周囲にかたくりの花が自生するところからこの場所を伝承地とし歌碑を建立した。 揮毫は万葉学者の犬養孝氏
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「かたかごの花」の歌碑
もののふの 八十をとめらが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花 (巻19-4143)
「かたかごの花」は「片栗の花」のことでユリ科の多年草、3月末から4月下旬頃まで紅紫色の可憐な花をつける。
万葉集の中で「かたかごの花」を読んだ歌はこの一首のみ -
国分寺跡
所在地は伏木一宮2丁。8世紀半ば聖武天皇の詔により全国に国分寺と国分尼寺が建立された。
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国分寺跡
現在薬師堂のある一帯から瓦や土器などが発掘されている。
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二上山(ふたかみやま)
標高274m 古代から神の山として崇められている。万葉時代、都から赴任した青年家持の心を動かしたたおやかな山は偶然、大和の二上山(にじょうさん)と同名、いやが上にも家恋し、妻恋しの思いが強くなり詩情をかきたてられたに違いない。今では二上山万葉ラインが山腹、山頂を廻りドライブコースになっており、道沿いに万葉植物園、郷土資料館、大伴家持像などがある
「二上」を詠んだ歌は万葉集中11首あるが その中で家持の歌が8首占めるほど彼の生活から離れなかったと思える。 -
大伴家持像 miki提供
玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり (巻17-3987)
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気多神社(けたじんじゃ)
奈良時代から長く越中一の宮として格式の高い延喜式内の古社、三間社流造り、屋根はこけら葺き 室町時代の風格を誇っている。
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気多神社
本殿は修復中、 現在国の重要文化財に指定されている。
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大伴神社
気多神社の境内に大伴家持を祀るため、家持没後1200年を記念して、顕彰碑と歌碑を建立、昭和60年に創建された。
家持は越中を代表する景観を 『越中三賦』 という大作にまとめた。 -
大伴神社
「二上山の賦」 (巻⑰3985~7) 「布勢の水海の賦」 (巻⑰3991) 「立山の賦」 (巻⑰4000~2)、それぞれの場所から石を運び顕彰碑の脇石とした。
この土地の大伴家持に対する思い入れの強さに感嘆するひとときでした。 -
大伴神社
(歌碑) 馬並めて いざ打ち行かな 渋谿(しぶたに)の 清き磯廻(いそみ)に 寄する波見に (巻17-3954)
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雨晴海岸(あまはらしかいがん)
渋渓の崎(しぶたにのさき)
渋谿を さしてわが行く この浜に 月夜飽きてむ 馬暫し留め (巻19-4206) -
雨晴岩
家持がしばしば訪れた渋渓の崎は国庁跡から北へ1km程のところにあります。二上山の山裾が海岸に落ち込む出崎になっているため日本海の荒波に洗われた数々の奇岩がそそり立ち、なかなかの絶景です。
冬の晴れた日には 女岩の向うに雪の立山連峰が望める景勝の地で「日本の渚100選」にも選ばれています。雨晴(あまはらし)の名は義経、弁慶主従が奥州へ落ち延びる途中岩陰で雨宿りした伝説によるものです。写真は雨晴岩で小さな洞窟になっており、以前はこの中には入れたのですが今は柵がされて入れませんでした。 -
つままの歌碑
「つまま」の樹はタブノキという樟科の植物と見るのが定説になっている。家持はこの渋谿で岩上に根を張る見慣れない大樹と聞きなれない「つまま」の名に驚きを感じたことでしょう。
歌碑は安政5年(1858)加賀藩の肝煎(きめる)宗九郎の建立で珍しい笠碑に歌が刻まれている。
つまま小公園の中、前方に女岩の見える場所に何代目かのつままの樹の木陰に建っている。 -
渋谿の崎
渋谿の崎を過ぎて磐の上の樹をみる歌一首
磯の上の 都万麻(つまま)を見れば 根を延へて 年深からし 神さびにけり (巻19-4159) -
高岡山瑞龍寺 山門(仁王門)
万葉集には直接関係ありませんが 高岡市のすばらしい文化遺産瑞龍寺を紹介します。
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高岡山瑞龍寺 八丁道(参道)
JR高岡駅の南にある曹洞宗の名刹、高岡の開祖前田利長の菩提寺で三代藩主前田利常の建立、壮大な七堂伽藍を配置、総門、山門、仏殿、法堂を一直線に配し回廊は山門から法堂まで左右対称に配置されている。
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高岡山瑞龍寺 仏殿
山門、仏殿、法堂が国宝に、総門、禅堂、大庫裏、回廊、大茶堂が重要文化財に指定されており江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されている
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高岡山瑞龍寺 宝堂
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高岡山 瑞龍寺 大庫裏
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禅堂と回廊